第9話 地獄変が燃える
【起】
教室を支配しているのは、静寂というよりは、むしろ粘り気のある熱気であった。窓の外では冬の夕日が、まるで誰かの返り血を浴びたように、どろりと赤黒く空を染めている。
教壇に立つ芥川龍之介は、チョークを握る指先が白く震えているのを自覚していた。黒板には、燃え盛る牛車の中で悶絶する女の姿が、彼の荒い呼吸に同期するように、暴力的な筆致で描き出されている。
「……絵師・良秀は、愛娘が炎に包まれる様を見て、最初は天を仰いで絶望に悶えた。しかし、その業火が彼女の命を焼き尽くし、肉の焦げる匂いが立ち込める瞬間、彼は法悦の表情を浮かべ、筆を走らせたのだ。……諸君、これを狂気と断じるのは容易い。だが、芸術という名の至高の誠実さの前に、肉親の命すら『色彩の一部』として差し出したこの男を、誰が笑えるというのかね?」
芥川の声は、喉の奥で小石を噛み砕くような不吉な音を立てていた。その問いは、もはや生徒たちに向けられたものではなかった。
彼は、自らの内に飼い慣らしていた「表現者」という名の化け物の存在を、初めて直視していた。かつて、神田という少年を「零点」という名の地獄に突き落としたあの瞬間。自分の心の奥底で、その少年の歪んだ顔を「文学的に美しい」と愛で、最高のアングルで観察していた醜悪な自分。教育という高尚な舞台装置を使って、生徒を解剖し、その絶望を自らの文学的正義を完成させるためのインクに変えていたのではないか。
彼は、自らの喉元に突き立てられた解剖刀の冷たさを、確かに感じていた。
【承】
放課後、校舎の屋上へと続く階段を昇る芥川の足取りは、ひどく重かった。屋上のフェンス越しに広がる街の灯りは、まるで地獄の底で蠢く燐光のように見えた。
そこに、一人の影があった。第2話で「文学を殺した」と断罪され、教室から、そして世界の序列から追い出されたはずの少年、神田である。
「神田君。……私は、君を犠牲にしたのだ」
背後に立った芥川の声は、冬の夜風に晒された枯れ葉のように、カサカサと乾いていた。
「私は君を救うためではなく、私自身の『正解のない文学』という理想を証明するために、君という実存を、教育という名のキャンバスに描くための『素材』として扱った。君が絶望し、堕ちていく様を見て、私の脳髄は文学的な法悦に浸っていたのだ。……私は、良秀と同じ、表現の悪魔に魂を売った化け物だ」
芥川の告白は、もはや授業ではなく、血を吐くような嘔吐であった。彼は、自らが築き上げてきた「理性的で冷徹な教員」という名の城が、内側から爆発し、崩壊していく音を聴いていた。
【転】
神田は、ゆっくりと、錆びたフェンスを軋ませて振り返った。その瞳には、以前の、他者を踏みつけてでも上に立ちたいという餓鬼のような執着は消え失せ、底知れぬ静謐が湛えられていた。
「先生。僕はあの日、先生に突き放されて、初めて自分の『重さ』というものを知りました」
神田の言葉は、芥川の想像を超えた静けさを持っていた。
「先生が言った通り、僕は文学を、誰かを見下すための台座にしようとしていた。でも、先生に地獄へ突き落とされて、そこで独りぼっちになった時、ようやく僕を飾っていた偽物のプライドが、先生の投げた言葉の火で焼き尽くされたんです。……痛かったけれど、不思議と、体が軽くなった気がしました」
神田は、ポケットからボロボロに擦り切れた第2話のプリントを、宝物のように取り出した。
「先生。それでも、先生の授業は僕を動かしました。先生の言葉は、確かに僕の皮膚を裂いた。けれど、その傷口から、初めて新しい、冷たくて清らかな空気が入ってきたんです。……だから僕は、太宰先生の誘いにも乗らず、まだここに立っていられるんだと思います」
神田の言葉は、芥川にとって最大の「救済」であり、同時に最も過酷な「呪い」でもあった。教育というものは、常に生徒の血を代償にしてしか、その真理を刻むことができないのか。自分が加害者であるという事実の上にしか、他者の成長を築けないのか。その矛盾に、芥川の細い肩が激しく震えた。
【作中作:地獄変2025】
主人公は、ある「天才教育プロデューサー」でございました。
彼は、落ちこぼれの少年を徹底的に追い詰め、その絶望を4Kカメラで執拗に追い、ドキュメンタリー映像として世界に配信いたしました。全視聴者はその「リアルな痛み」に酔いしれ、男は莫大な富と、教育界の革命児という名声を手に入れたのでございます。
少年は、男の冷酷な演出通りに涙を流し、挫折し、そして最後には、誰もが納得する「立ち直り」という美しいエンディングを演じさせられました。
プロデューサーは、完成した映像を暗い試写室で眺め、自らの完璧な構築美に、身震いするほどの陶酔を覚えました。
しかし、ある日。成長した少年が彼のもとを訪れ、その無表情な顔でこう告げたのです。
「あなたが僕を救ったのは、僕のためじゃなく、あなたの『作品』を完成させるためでしたね。……ありがとうございます。あなたのその、人間を素材としてしか見ない『徹底的な嘘』のおかげで、僕は一生、誰の言葉も真に受けないで済む、鉄のような強さを手に入れました」
プロデューサーは、その少年の「感謝」という名の刃の中に、自分という人間を一生軽蔑し続け、決して赦さないという、底なしの呪いが込められていることに気づきました。
彼は、自らが作り上げた「感動」という名の炎が、実は自分自身を焼き尽くすための業火であったことを悟り、誰一人として救っていなかったという真実の虚無の中に、ただ独り、立ち尽くすのでございました。
【結】
屋上のフェンスに、太宰が死神のような身軽さで腰掛けていた。
「先生。ようやく、自分の手の汚れに気づきましたか。文学なんて、所詮は人の不幸を煮詰めて、それを極上の香水だと偽って売る商売ですよ。先生も僕も、その死臭がなきゃ息ができない、共食いの獣なんです」
太宰の嘲笑は、かつてないほど優しく、芥川の耳に届いた。
そこへ、漱石が静かに、しかし圧倒的な質量を伴って現れ、芥川の震える肩を大きな手で包み込んだ。
「芥川君。己の業を自覚して、なおこの地獄のような教壇に立ち続けるか。それとも、良秀のように、完璧な絵を完成させたその夜に、首を吊るか。……決めるのは、君という個人だ」
芥川は、眼鏡を外し、溢れそうになる熱いものを手の甲で拭った。そして、もう一度、歪んだ視界で世界を見据えた。
「……私は、良秀にはなれません。良秀になるには、私はまだ、あまりに人間を愛しすぎています。私は、この泥沼のような矛盾の中に、もう一度足を踏み入れます。……神田君。明日の授業は、君の最も嫌いな『信頼』という名の、救いようのない幻想についてだ。……聞きに来るかね」
神田は、夕闇の中で、微かに、しかし確かに頷いた。
芥川は、自らのエゴという業火に焼かれながら、それでもなお、言葉という名の不確かな、しかしこれしかない「糸」を、再び地獄の底へと垂らす決意をした。
【了】
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