第8話 こころが重すぎる

【起】


 国語科主任・夏目漱石の授業は、常に凍てつくような緊張感に支配されている。

 黒板に記されたのは、『こころ』の一節。

「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」

 漱石は、教壇から生徒たちを、あるいは彼らの「魂」そのものを透視するように見据えた。

「諸君。裏切りとは、他者を殺すことではない。他者を踏み台にして得た幸福が、自分の喉を焼き、一生消えない渇きを与えることだ。……さて、この教室の中に、既にその渇きを知っている者はいないかね?」

 その問いは、ある一人の生徒、コウスケの心臓を直接掴んだ。


【承】


 コウスケには、中学からの親友「ケイ」がいた。

 ケイは内向的だが、一人の女子生徒に秘かな、しかし命懸けの恋をしていた。コウスケはその相談を、親友として、あるいは「兄」のような顔で聞き続けていた。

 しかし、コウスケは裏で動いた。

 ケイの純粋さを逆手に取り、彼女にケイの欠点を吹き込み、最後には親友の信頼を「精神的な向上心がない」と断じて踏みつけ、彼女を自分のものにしたのである。

 ケイは、絶望の末に学校を去った。死んではいないが、彼の魂はコウスケによって殺されたに等しい。

 コウスケは彼女を手に入れた。しかし、彼女と手を繋ぐたび、その指先からケイの冷たい視線が伝わってくるような錯覚に陥り、夜も眠れぬ日々を過ごしていた。


【転】


 放課後。コウスケは、逃げ出すようにして漱石の執務室を訪れた。彼は震える声で、自分の罪を、泥を吐き出すように告白した。

 漱石は、珈琲の湯気の向こうから、一言も発さずにその告白を聞き届けた。

「先生……どうすれば、この重荷を下ろせますか。彼女にすべてを話し、謝罪すれば、僕は救われるのでしょうか」

 漱石は、ゆっくりと万年筆を置いた。

「救われる? 救いなどという安っぽい言葉を、文学の場に持ち込むな。君がしたことは、取り返しのつかない『裏切り』だ。謝罪とは、自分の心を楽にするための最後の利己主義に過ぎん」

 コウスケが絶望に顔を伏せた時、漱石は自身の新作原稿を差し出した。


【作中作:こころ2025】


 主人公は、SNSの非公開グループで、親友の「秘密」を暴露することで、自分が優位に立ち、共通の知人である女性の歓心を買った男でございました。

 親友は社会的に抹殺され、アカウントを消して姿を消しました。男は、望んだ通り彼女と結ばれましたが、幸福の絶頂であるはずのその瞬間、スマホの画面に映る自分の顔が、死んだ親友の顔に重なって見えるようになったのです。

 彼は罪悪感に耐えきれず、彼女にすべてを打ち明けました。「実は、あの暴露は僕の捏造だったんだ」と。

 しかし、彼女の反応は彼の予想とは違いました。

「……そんなこと、どうでもいいわ。私が好きになったのは今のあなたなんだから。昔のことは忘れましょう」

 彼女の「許し」という名の無関心。

 それこそが、男にとって最大の地獄でございました。

 彼は気づいたのです。自分の犯した罪は、誰に告白しても、誰に許されても、自分という孤独な牢獄の中に一生閉じ込められ、自分を内側から食い破り続ける「呪い」になったのだということを。


【結】


 漱石は、窓の外の暮れなずむ校庭を見つめながら、静かに告げた。

「裏切りは、告白しても消えない。しかし、告白しなければ、君は人間ではない。ただの、歩く肉の塊だ。君は一生、その重すぎる『こころ』を背負って歩くがいい。それが、人間として生きるということだ」

 職員室へ戻る廊下。漱石は、廊下の向こうから歩いてくる鷗外とすれ違った。

 鷗外は、完璧な無表情で、一瞥もくれずに通り過ぎる。

「森君。君の『制度』という盾は、随分と頑丈なようだね」

 漱石の言葉に、鷗外は足を止めずに答えた。

「夏目君。君の『良心』という病は、随分と重症のようだ。そんな不確かなもので、自分を縛って何になる」

 芥川が、その二人の背中を見つめながら、震える手でタバコに火をつけた。

「……罪を否認するサイボーグと、罪に悶える人間。地獄は、どちらにとっても平等に訪れるのですね」

 太宰が、物陰からコウスケの絶望した背中を見つめ、寂しげに笑う。

「……重いなあ。でも、その重さが、命の重さなんだよ。……ねえ、君もこっちに来る?」

 太宰の手には、相変わらず、どこまでも甘い、死への招待状が握られていた。


【了】

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