第5話 蟹工船が炎上する
【起】
学校という組織の華やかな進学実績の裏側には、湿った地下室のような階層が存在する。「非常勤講師」——それは、教育という聖域において、最も安価に買い叩かれ、最も容易に切り捨てられる消耗品たちの総称である。
小林多喜二は、その最下層で泥を啜っていた。
彼は三つの学校を掛け持ちし、一分刻みの乗換案内を命綱にして、冬の凍てつくホームで冷え切ったおにぎりを詰め込む。一コマ数千円。交通費は上限あり。ボーナスなし。明日の身分保障すら、紙切れ一枚の契約更新に委ねられている。
「……芥川先生。僕たちは、教育という名の『蟹工船』に乗せられているんですよ。この船の行き先は、誰も知らない。ただ、僕たちが倒れるまで、システムを回し続ける燃料にされているだけだ」
多喜二の指先は、極寒の駅のベンチで、スマートフォンの画面を激しく叩いていた。彼は実名で、この教育現場の構造的搾取を告発し始めた。かつて彼が、特高警察の暴力に抗ったように、現代の「アルゴリズム」という名の静かな暴力に、プロレタリアの拳を振り上げたのだ。
【承】
多喜二の投稿は、火薬庫に火を放ったかのように拡散された。しかし、そこに並んだ言葉は、かつての労働者たちが交わした「連帯」ではなかった。現代の労働者たちは、自分たちより低い場所で喘ぐ者を見つけ、踏みつけることで、自らの「立ち位置」を辛うじて守ろうとする。
『嫌なら辞めればいいじゃん。代わりはいくらでもいるのが現実』
『やりがい搾取とか言ってる暇あるなら、正規雇用の努力すれば? 自己責任だよ』
『学校に政治を持ち込むな。生徒がかわいそう。これだからパヨクは』
多喜二が震える手で眺める画面には、無数の「冷笑」が溢れていた。それは物理的な殴打よりも深く、精神の芯を凍らせる。
「……俺の時代と、何も変わっていない。いや、敵が『特高』という目に見える巨悪から、『善良な市民』という匿名の大衆に変わった分、救いがない。彼らは自分たちが加害者だということすら、アルゴリズムに責任転嫁して忘れている」
芥川は、隣でその炎上の火を無言で見つめていた。その瞳には、かつて自分が『羅生門』で描いた「生きるための悪」が、現代では「効率のための悪」へと進化している絶望が映っていた。
【転】
多喜二は、精神を削り取りながら、最後の抵抗として、自身の窮状を投影した掌編をアップロードした。それは、物理的な船ではなく、デジタルの海を漂う労働者たちの物語だった。
【作中作:蟹工船2025】
地獄。そこは、北の海ではなく「配送管理アプリ」の画面の中にございました。
労働者たちは、一分一秒をAIによって監視され、その一挙手一投足が数値化されます。評価スコアが〇・一でも基準を下回れば、その瞬間に「仕事」という名の生命線が断たれるのでございます。
彼らは互いに顔も知りません。隣で配達している男が、実はシステムによって自分の報酬を削り取るための「ライバル」として配置されていることすら、気づかない。
「おい、みんなでログインを拒否しよう! この不当なアルゴリズムを、俺たちの手で止めるんだ!」
一人の男がチャット画面で叫びました。
しかし、システムは即座に男のIDを凍結し、他の労働者たちに「特別ボーナス(限定インセンティブ)」という名の残飯を提示しました。
他の労働者たちは、凍結された男のことなど一顧だにせず、奪い合うように注文を受け、夜の街へと散っていきました。
アルゴリズムは、人間の「欲」と「生存本能」を完璧に演算し、連帯という不確実な要素を、事前に、かつ完璧に排除していくのでございます。
男は、誰もいない路地裏で、電池の切れたスマホを握りしめ、自分が誰からも「人間」として認識されていなかった事実に、ただ震えていた。
【結】
多喜二は、力なく職員室の椅子に沈んだ。画面の中では、相変わらず「自己責任」という名の処刑が行われている。
「……無駄だった。連帯なんて、この『最適化』された世界では、ただのバグに過ぎないんだ」
その時、多喜二の肩に、ふわりと軽い手が置かれた。
前日にアカウントを消し、魂の抜けたような顔をしていた太宰だった。
「小林先生。無意味でもね、叫び続けるのが人間なんですよ。……先生の投稿、僕は美しくて、吐き気がしましたよ。自分を燃やして、誰も暖まらない火を焚いた。それは、この効率的な世界で、最高に無駄で、最高に贅沢な自傷じゃないですか」
太宰の目は、依然として深い絶望を湛えていたが、その奥には、同じ地獄を見た者だけが持つ、奇妙な透明感があった。
「……太宰君。君の言う通りだ。僕たちは、自分を殺してまで、このシステムの歯車になりたいわけじゃない」
漱石が、重厚な万年筆を置き、ゆっくりと二人を振り返った。
「……小林君。君が投げた言葉は、一万枚の盾によって弾き返された。だが、その弾かれた火花が、誰かの一瞬の暗闇を照らしたかもしれん。……それだけで、文学の役目は果たされたと言えんかね」
多喜二のスマホには、相変わらず罵詈雑言が届き続けていた。しかし、その通知の濁流の中に、たった一件だけ、匿名のダイレクトメッセージが混じっていた。
『先生、昨日の授業で言ってた「誰かの犠牲の上に成り立つ幸福は本物か」って言葉。ずっと考えてます。辞めないで』
それは、どのアルゴリズムも弾き出せなかった、非効率で、非合理な、一片の祈りだった。多喜二は、その一文を何度も読み返し、真っ白な指先を、再びキーボードに添えた。
蟹工船のエンジン音は止まらない。だが、その騒音の中でも、まだ聞こえる声があった。
【了】
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます