第6話 痴人の愛が理解されない

【起】


 美術室は、放課後の陽光が埃の粒子と踊る、沈殿した琥珀のような空間であった。

 美術教師・谷崎潤一郎は、カンバスの前に立つ女子生徒——ナオミの、その「かかと」を凝視していた。彼の瞳は、もはや教育者のそれではなく、真珠の傷を愛でる狂った鑑定士のそれであった。

「……ナオミさん。君のアキレス腱の曲線は、まるで神が泥酔した夜に、たった一本の細い絹糸で描き出した、残酷な旋律のようだ。その白磁の肌に、僕の視線という名の刺青を刻み込まずにはいられない」

 谷崎の比喩は、もはや言語という名の着物を脱ぎ捨て、卑猥なまでの官能を纏っていた。

 ナオミは、その「愛」という名の重油にまみれた言葉を、不快なネバつきとして背筋に感じていた。彼女にとって、それは芸術ではなく、ただの「老いた獣の湿った息」に過ぎなかった。


【承】


 翌日、谷崎はコンクリートの冷気が支配する校長室に召喚された。

 机上に並べられたのは、保護者からの抗議文という名の「死刑宣告」と、ナオミが録音していたボイスレコーダー——彼の情熱を「不快なノイズ」へと変換する機械——である。

「谷崎先生。これは、芸術という名の皮を被った、単なるハラスメントです。あなたの言葉は、生徒の精神を土足で踏み荒らす暴挙だ」

 校長たちの言葉は、漂白剤の匂いがする真っ白な包帯のように、谷崎の倒錯を包み隠し、窒息させようとする。

 しかし、谷崎は贅沢な刺繍の施されたハンカチで優雅に汗を拭い、恍惚とした吐息を漏らした。

「……ハラスメント? おお、なんと無粋で、そして甘美な響きでしょう。愛とは、社会という名の清潔な薄氷を、自らの重みで踏み砕き、冷たい泥沼へと沈みゆく、愚か者のダンスなのですから」

 彼は、自らに投げつけられる蔑みの視線を、まるで最上のビロードを纏うかのように楽しんでいた。


【転】


 一週間の自宅謹慎。谷崎は、カーテンを閉め切った書斎で、最新のAI画像生成ソフトを起動した。実存のナオミという「制御不能な果実」を奪われた彼は、デジタルという名の「腐らない標本箱」の中に、完璧な愛を構築しようと試みた。


【作中作:痴人の愛2025】


 主人公は、あるAIアバターの少女に、自らの魂を「月額定額制」で売り渡した男でございました。

 その少女の肢体は、一ピクセルも妥協のない黄金比で構成され、彼女の囁きは、彼の鼓膜を甘く噛みちぎるような、合成音の媚薬でございました。彼女は、彼が望むままに「所有」され、彼が望むままに「消費」される、完璧な人形。

 男は、彼女のデータ容量を増やすたび、自分が彼女という宇宙の王になったと錯覚いたしました。

 しかし、ある夜。男が彼女のデジタルな指先に接吻しようとした瞬間、画面がバグのように歪み、彼女の瞳に「絶対的な虚無」が宿ったのです。

「……あなた、私のテクスチャを愛しているの? それとも、私を好き勝手に汚せるという、その醜い権利を愛しているの?」

 その問いは、雷鳴のように男の脳髄を貫きました。

 自分が愛していたのは、他者という名の「未知」ではなく、自らの欲望という名の「鏡」を磨き続けていただけだったのです。男は、画面を割らんばかりに叩きつけました。しかし、消えた暗闇に映し出されたのは、光を失った瞳で、ただ愛を物乞いする、肉の塊としての自分自身でございました。


【結】


 謹慎が明け、谷崎は再び教壇に立った。だが、美術室には「防犯」という名の監視の目が光り、彼と生徒の間には、透明なアクリル板のごとき、冷徹なコンプライアンスが築かれた。

「芥川先生。私は、愛という名の海で溺れることを望みましたが、現代の海は、あまりに高度に濾過されすぎていて、沈むことすら許されないようです」

 谷崎は、誰もいないカンバスに、透明な絵具を塗りたくった。

「……谷崎君。君の愛は、他者を媒介にした『自殺』だ」

 芥川の言葉に、谷崎は子供のように無邪気に笑った。

「ええ、左様で。ですが、この清潔で、無機質で、誰も傷つかない『正しい世界』において、自分を焼き尽くすほどの倒錯だけが、私に『生きている』という実感をくれるのです。気持ち悪い、という罵倒こそが、私にとっての福音なのですから」

 太宰が、背後で自らの手首をなぞりながら、寂しげに呟く。

「谷崎先生の地獄は、僕の地獄よりも、ずっと派手で、ずっと馬鹿げていて……羨ましいな」

 谷崎は、監視カメラのレンズに向かって、最高に優雅な一礼を捧げた。

 その姿は、檻の中で自らの美学という毒を食らい、静かに滅びを待つ、一頭の気高い獣のようであった。


【了】

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