第5話 『短縮版』ラストソングを君と 〜終わらないアンコールの幕開け〜

熱狂の余韻が残る、コンサート終了直後のバックステージ。

 迷路のような通路を走り抜け、私はスタッフに詰め寄られながらも、ただ一点――彼がいるはずの楽屋を目指した。


 重厚な扉が開いた瞬間、漂ってきたのは、舞台用の強い香水と、隠しきれない彼の「熱」だった。


「……来たんだね」


 ソファに深く腰掛け、肩で息をしていた善治が顔を上げた。

 ステージの上の王者のような顔ではない。そこには、三年分の孤独を抱えた一人の青年がいた。


「善治、私……」

「何も言わないで。わかってるから」


 彼は立ち上がり、長い足で一気に距離を詰めると、折れそうなほど強く私を抱きしめた。

 彼の心臓の音が、私の胸に直接響いてくる。あまりに速く、あまりに必死な鼓動。


「社長に言われたんだろ。俺の邪魔になるから消えろって」

「……え?」

「気づかないわけないだろ。あの夜、君が僕を捨てた時、君の手は震えてた。……俺、ずっと後悔してたんだ。君にそこまで言わせるほど、俺は頼りなかったんだって」


 善治の腕に力がこもる。

 三年前、私が彼を守るためについた嘘は、彼には疾(とう)に見透かされていたのだ。

 彼は私の耳元で、低く、誓うような声で囁いた。


「もう、勝手にいなくなるな。世界を敵に回す準備なんて、あの日の夜にできてるんだ。……君がいない世界でスターになるより、君がいる世界で君のためだけに歌う方が、俺には価値がある」


 私は、彼の胸に顔を埋め、抑えていた涙を溢れさせた。

 三年間、ずっと一人で抱えてきた「正しさ」という名の重荷が、彼の体温に触れて、さらさらと崩れていく。


「……ごめんね、善治。私、ずっと、あなたの歌を聴くのが怖かった。聴いたら、もう戻れなくなるってわかってたから」

「戻るんじゃない。ここから始めるんだ」


 善治は私の顔を両手で包み込み、涙を親指でそっと拭った。

 そして、傍らに置かれていた一台の電子ピアノに目をやる。


「優里。三年前の続き、しようか」


 彼は私をピアノの前に座らせ、自分もその隣に腰を下ろした。

 数万人の前で歌った完璧なステージの後で、彼は今、世界で一番贅沢なアンコールを私に求めている。


 私が鍵盤に指を置く。

 沈黙の中に、優しく、けれど確かな意志を持った一音が響いた。

 それに合わせるように、善治が歌い出す。


 それは、三年前の寒い練習室で、一本の有線イヤホンから流れていたあの曲。

 悲しい別れの歌ではなく、今日、本当の愛を知った二人のための、新しいラブソング。


 部屋の窓の外では、いつの間にか雨が上がり、雲の間から柔らかな月光が差し込んでいた。  私たちの指先が鍵盤の上で重なり、声と音が溶け合っていく。


 ――ねぇ、善治。

 世界で一番綺麗なラブソングは、今、ここにあるね。


 この曲に、終わりはない。

 私たちが共に刻むリズムがある限り、私たちの物語(アンコール)は、どこまでも続いていく。


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