第4話 逆襲のプロポーズ

『逃げ切れると思うなよ、僕の伴奏者』

 三年の月日は、残酷なほど私を変えた。

 かつての夢も、ピアノを弾く喜びも、すべてソウルの土砂降りの雨の中に置いてきた。今の私は、地方都市の片隅にある古びた楽器店で、レジ打ちと清掃に追われるだけの「名もなき女」だ。  指先は鍵盤に触れることを忘れ、代わりに洗剤で荒れ果てている。


「おい、優里! さっさと倉庫の整理をしろと言っただろう! どん臭いんだよ、お前は」

 店長の怒鳴り声が店内に響く。

 彼は私がかつて練習生だったことを知り、ことあるごとに「売れ残りの夢追い人」と嘲笑ってきた。

「すみません……すぐやります」

 私は深く頭を下げ、冷たい床に膝をつく。かつて善治が守ってくれたこの手は、今や段ボールで切った傷だらけだった。


 店内のテレビからは、三年前とは比べものにならないほど洗練された善治の声が流れている。

『世界ツアー最終公演、チケットは数分で完売――』

 画面の中の彼は、誰も寄せ付けない孤高の王者のように微笑んでいた。私が彼を捨てたあの日、パク代表が言った通り。彼は「孤独」を纏うことで、本当のカリスマになったのだ。

 これでいい。私の選択は正しかった。そう自分に言い聞かせ、私は耳を塞ぐように作業を続けた。


 ――その時だった。

 店の前に、静かな、しかし重厚なエンジン音が響いた。

 場違いなほど高級な黒塗りのセダンが三台、砂埃を上げて停車する。店長が「なんだ、客か?」と怪訝そうに顔を上げた。

 車から降りてきたのは、耳にインカムをつけた屈強な黒スーツの男たち。彼らは一糸乱れぬ動きで店の入り口を固め、まるで王の通り道を作るように左右に分かれた。


 最後に降りてきた一人の男の姿に、私は持っていたカッターナイフを床に落とした。


 仕立てのいいチェスターコート。冷徹なまでに整った顔立ち。そして、あの頃よりもずっと深く、射抜くような鋭さを増した瞳。

「……善、治……?」

 震える声は、誰にも届かなかった。


「な、なんだ君たちは! 営業妨害だぞ!」

 店長が威勢よく駆け寄るが、善治の背後に控えていた男が、一枚の名刺を突きつけた。

「お静かに。現在、この店舗を含む一帯の不動産、および運営会社の株式の過半数は、こちらのゼンジ・サトウ氏が取得いたしました。彼は今日、自分の『所有物』を回収しに来ただけです」


 店長が顔を真っ青にしてへたり込む。善治は店長など目にもくれず、ただ一直線に、埃にまみれて床に這いつくばる私を見つめていた。

 彼はゆっくりと歩み寄り、私の前に膝をついた。高価なコートの裾が汚れるのも厭わず、彼は私の荒れた右手をそっと、しかし逃がさない強さで握りしめた。


「やっと見つけた」

 その声は、驚くほど低く、そして熱を帯びていた。

「三年前、君は僕を捨てれば完成すると言ったね。……ああ、その通りだよ、優里。君がいなくなってから、僕の歌は絶望で磨かれた。世界中が僕を称賛した。でもね」


 善治の指が、私の頬を伝う汗を拭う。

「心に穴が開いたまま、百万回歌うのがどれほど地獄か、想像したことはあるか? 君がいない世界なんて、僕にとってはただのノイズだ」


「……帰って、善治。私はもう、あなたの隣に立つ資格なんてない」

 私が弱々しく拒絶すると、彼は冷たく、それでいて美しい笑みを浮かべた。

「資格? そんなものは、僕が決める。君を追い出したパク代表も、君を侮辱したこの店の連中も、すべて僕の足元に跪かせた。君を縛るものは、もうこの世界に何一つないんだ」


 善治が立ち上がり、私の腰を強引に抱き寄せる。

「三年前、僕は君に『隣にいて』と願った。でも、今は違う」

 彼は私の耳元に唇を寄せ、周囲の大人たちが息を呑む中で、傲慢に言い放った。


「これは命令だ。一生、僕のそばで鍵盤を叩け。逃げようとしても無駄だ。君がどこへ行こうと、僕がこの世界のすべてを買い占めてでも、君を追い詰めてやる」


 強引な、けれどあまりにも切実なプロポーズ。  店の外には、いつの間にか聞きつけた記者や野次馬が集まっていた。けれど善治は構わず、ずぶ濡れの野良猫のようだった私を、何よりも尊い宝物のように抱き上げ、車へと連れ去った。


 車内に広がる、あの頃と同じ安っぽい柔軟剤の香り――。

 いいえ、それは今の彼にふさわしい、洗練された香水の匂いに変わっていた。

 けれど、私の指を握りしめる手の熱さだけは、あの地下二階の練習室で、一本の有線コードを分け合ったあの日のままだった。


「……覚悟しろよ、優里。僕を捨てた罰は、一生かけて受けてもらうからな」


 こうして、私の「伴奏者」としての第二幕が、強引に、そして劇的に幕を開けた。


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