第3話 偽りの終止符

『世界で一番残酷な「愛してる」の形』

 あの日、地下二階の練習室で「僕を完成させて」と願った善治の熱い体温が、まだ私の指先には消えずに残っていた。

 けれど、私を呼び出した事務所の代表、パク・ソンミンのデスクの上に置かれた一枚の書類が、その温もりを急速に、そして無慈悲に奪っていった。  

「ソロデビューが決まった。タイトル曲は、例の君たちが作っていたバラードだ」

 一瞬、心臓が跳ねた。視界がパッと明るくなるような感覚。ついにやった。善治の、私たちの夢が、ついに形になるんだ。

 けれど、パク代表の冷徹な瞳は、少しも笑っていなかった。

「ただし、条件がある。……優里、君には今日限りで、この事務所を去ってもらう」


 耳を疑った。鼓動が耳の奥でうるさく打ち鳴らされる。

「どういう……意味ですか? 私は彼のパートナーとして、伴奏者として……」

「今の彼に必要なのは、共に傷を舐め合う『戦友』じゃない。誰の手も届かない場所に座る『絶対的なカリスマ』だ」  パク代表はデスクに肘をつき、組んだ指の隙間から私を観察するように続けた。その言葉は、丁寧に研がれたナイフで、私の心を一思いに切り刻んでいく。

「君という依存先がある限り、彼の歌には、どこか甘えが残る。ファンは彼に寄り添う女が見たいんじゃない。孤独に震えながら、自分たちだけに歌いかけるスターを求めているんだ。君が隣にいることは、彼がこれから手にするはずの数百万人の愛を、一人の独占欲で殺すことになる。それは彼の才能に対する冒涜だと思わないか?」


 ――君が、彼の未来を殺しているんだ。

 その言葉が、心臓の最も深い場所に突き刺さった。私が彼を想う気持ちそのものが、彼の翼を縛る枷(かせ)になっているという事実。否定したかった。けれど、彼が私を求める切実すぎる瞳を思い出すたび、私はその言葉を拒絶できなくなっていった。


 オフィスを出ると、外は世界を塗りつぶすような土砂降りの雨だった。

 非常階段の踊り場で、私は震える手でスマートフォンの画面を見つめる。

 善治から、「曲が完成した! 今すぐ聴かせたい。練習室で待ってる」という、弾んだメッセージが届いていた。画面の向こうで彼がどんなに無邪気に笑っているか、想像するだけで胸が引き裂かれそうになる。


 彼と一緒にいれば、私は世界で一番幸せだ。けれど、その幸せの代償は、彼の輝かしい未来を奪うこと。

 世界中に響くべき彼の歌声を、地下二階の湿った練習室に閉じ込めておく権利が、私にあるのだろうか。  

 彼は、私がいなければ壊れると言った。  なら、私が彼を壊せばいい。

 私を徹底的に憎ませて、その絶望を燃料にして、彼を誰も届かない高みへと押し上げる。それが、伴奏者として私が彼に捧げられる、最後で最大の「演出」だ。


 私は、彼と共有していたクラウドの練習音源を、指先ひとつで消去した。 ポケットの中で、あの日彼から渡された、安物の有線イヤホンを握りしめる。 「さよなら、善治」

 練習室のドアを開けると、微かなピアノの音が聞こえた。善治が一人で、あのメロディを弾いていた。

「優里! 遅いよ、早くこれ聴いて……」

 駆け寄ろうとする彼の手を、私は氷のような視線で制した。

「もういいよ、善治。……私、もう疲れたの」


 善治の動きが、不自然なほどぴたりと止まる。 「……え?」

「あなたのその、まとわりつくような重い愛。才能があるのは認めるけど、私はあなたの介護係じゃない。自分の人生を、あなたの『伴奏者』という脇役だけで終わらせるなんて、もう耐えられない。私はもっと、自分一人の才能を評価してくれる場所に行くわ」


 善治の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。

「嘘だろ……? だって、あの日、あんなに……」

「あれは、ただの同情。地下二階の寒さにやられて、ちょっと頭がおかしくなってただけよ。正直、重荷だった。あなたが私に依存するたびに、私は自分の息ができなくなるような気がしてたの」


 私はバッグから、二人で書き溜めた歌詞のノートを取り出し、床に投げ捨てた。 「ソロデビュー、おめでとう。これでやっと、あなたの『お守り』から解放される。二度と、私の前に現れないで」


 善治が私の腕を掴んだ。その指先は、雪の夜よりも冷たく、壊れそうなほど震えていた。

「行かないでくれ、優里……! 君がいないと、僕は歌えない……! 自分の声がどこにあるのか、わからなくなるんだ……!」

 その悲鳴のような叫びに、私の心は何度も折れそうになる。今すぐ彼を抱きしめて、「全部嘘だよ」と言ってしまいたい。けれど、私は彼の掌を、残った力のすべてを振り絞って跳ね除けた。


「歌えるわよ。あなたはもう、私がいなくても、世界を黙らせる力を持ってる。私を捨てて、その孤独を歌に乗せなさい。それがあなたの、唯一の価値なんだから」


 最後に見た彼の瞳は、絶望で真っ暗に濁っていた。

 私は一度も振り返らずに、練習室を飛び出した。

 背後で、重い鉄扉が閉まる音が響く。それは私たちの関係に打たれた、冷酷な終止符だった。


 階段を駆け上がり、雨の中に飛び出す。

 涙が止まらなかった。雨と涙が混じり合って、視界は何も見えない。

 駅のホームで、ずぶ濡れのまま、私は一人で震えていた。  

 これでいい。

 これであなたは、本当の意味で「完成」する。  私の名前を呼ぶその絶望的な声を、怒りを、悲しみを、音楽に変えて世界に響かせなさい。

 その時、私は客席のどこにもいないけれど。  世界で一番遠い場所から、あなたの成功を、私だけの呪いとして見守り続けるから。


 ――私はその日、音楽を、そして自分自身の半分を、その場に置いて去った。


▶▶▶▶

【作風:方向性思案中】

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