第5話 伝説の焼肉と、弟子入り志願


 アリスの手の中で、マグカップが温かい。

 漂ってくる湯気は、豊潤で深みのあるコーヒーの香りだ。

 ここはS級ダンジョンの深層。致死の魔素が漂う極限地帯のはずなのに、この場所だけは、まるで休日のカフェテラスのような穏やかな空気が流れている。


 (美味しい……)


 一口すするだけで、冷え切った身体に熱が巡っていくのが分かった。

 アリスは、恐る恐る目の前の男――剛田豪を見上げた。


 彼は焚き火の番をしながら、自分のマグカップを静かに傾けている。

 ついさっき、神話級の怪物を物理法則無視の一撃で彼方へ吹き飛ばした人物とは、とても思えない。

 ただの、少し無愛想なソロキャンパーにしか見えなかった。


 (どうしよう。話しかけるべき? それとも……)


 アリスの視線が、手元の操作端末に落ちる。

 画面には、依然としてとんでもない数字が表示されていた。

 同接数、5万人超。

 コメント欄は、剛田の正体特定と、アリスへの指示で埋め尽くされている。


『アリスちゃん、その人マジで剛田だから!』

『サイン貰っとけ』

『いや、まずは弟子入りだろ』

『勝手に配信してることバレたらヤバくないか?』


 心臓が跳ねた。

 そうだ。この人は、自分が勝手に撮影されていることを知らない。

 しかも、その映像は世界中で大拡散されている。

 もし知られたら――。


 (でも、今止めたら……)


 遭難の記録が途絶える。それは探索者として命綱を切るようなものだ。

 それに、何より。

 アリス自身の心が叫んでいた。

 ――もっと見たい、と。

 この人が次になにをするのか。どんな伝説を作るのか。

 その一番近くにいたい、という欲求が、恐怖を上回っていた。


「……おい」


 不意に、剛田が口を開いた。

 アリスはビクリと肩を震わせる。


「ひ、はいっ!」


「肉、食わんのか?」


 剛田の視線は、アリスの膝の上――皿代わりの大きな葉っぱに乗せられた、ドラゴンの尻尾ステーキに向けられていた。

 さっきアリスが空腹で腹を鳴らした時に、彼が切り分けてくれたものだ。


「え、あ……い、いただきます!」


 アリスは慌ててナイフとフォークを手に取った。

 ずっしりと重い、上質な金属の感触。

 肉の表面はカリッと香ばしく焼け、中はレアなピンク色。

 ナイフを入れると、抵抗なくスッと切れ、肉汁がジュワッと溢れ出した。


 一口サイズに切った肉を、口に運ぶ。


「んぅ……っ!!」


 咀嚼した瞬間、口の中で旨味の爆弾が破裂した。

 ドラゴンの魔力を帯びた脂は、濃厚なのにしつこくない。噛めば噛むほど、野性味溢れる肉の味が広がる。

 塩と胡椒だけのシンプルな味付けが、素材の力を極限まで引き立てている。


「おいひぃ……これ、本当においしいです……!」


 涙が出た。

 死にかけた恐怖、安堵、そして空腹からの解放。

 いろんな感情が混ざり合って、アリスはボロボロと泣きながら肉を頬張った。


 ◇◇◇


 目の前の少女――確かアリスとか名乗っていたか――は、リスのように頬を膨らませて肉を食っていた。

 泣きながら、夢中で。

 見ていて気持ちのいい食いっぷりだ。


 (まあ、遭難して腹が減ってりゃ、何でも美味いか)


 俺はコーヒーを啜りながら、ぼんやりと考えた。

 彼女が持っている端末。

 画面の隅で、赤い『REC』のアイコンが点滅しているのが見えた。


 緊急時の記録ってやつか。

 まあ、勝手にしろ。


 俺の顔が映っているかもしれないが、どうでもいい。

 俺はもう引退した身だ。世間がどう騒ごうと、ここ(深層)までは届かない。

 好きに言わせておけばいい。


「ごちそうさまでした……!」


 アリスが綺麗に平らげた皿を置き、深々と頭を下げた。

 その目は、先ほどまでの怯えた小動物のようなものではなかった。

 何というか、もっと熱っぽい、決意に満ちた光を宿している。


「あの、剛田さん……いえ、剛田選手!」


「選手じゃない。ただの無職だ」


「じゃあ、剛田様! お願いがあります!」


 アリスは勢いよく立ち上がり、直角にお辞儀をした。


「私を、ここに置いてください! 働きます! 荷物持ちでも、薪割りでも、調理の補助でも!」


 俺は眉をひそめた。

 面倒ごとは御免だ。ここは俺のソロキャン場であって、託児所じゃない。


「断る。俺は一人で静かに過ごしたいんだ」


「邪魔はしません! 絶対に! 空気になります! あ、あと……記録係もやります!」


 アリスが端末を掲げた。


「剛田様のキャンプの様子、私が責任を持って記録します。万が一、地上で変な噂が立っても、この記録があれば証明できます! 『剛田様はただ静かに肉を焼いていただけです』って!」


 ……ふむ。

 それは少し、魅力的かもしれない。

 俺が地上から消えたことで、あることないこと書かれているのは想像に難くない。「ダンジョンで野垂れ死んだ」とか。

 正確な記録があれば、それらの雑音を黙らせる証拠になる。


 何より。

 この少女の目は、俺の現役時代、スタンドで必死に応援してくれていたファンたちの目と同じだった。

 純粋で、真っ直ぐな憧憬。


 (……チッ。調子が狂うな)


 俺は溜息をつき、空になったマグカップを置いた。


「……勝手にしろ」


「えっ?」


「俺は世話を焼かんぞ。自分の身は自分で守れ。食い扶持も自分で稼げ。俺の邪魔をするな」


 それは実質的な許可だった。

 アリスの顔が、ぱあっと輝く。


「はいっ! ありがとうございます! 師匠!」


「師匠はやめろ」


「はい、剛田師匠!」


 ……全然聞いてないな。

 まあいい。

 俺は再び焚き火に薪をくべた。

 ソロキャンプが、デュオキャンプ(仮)になっただけのことだ。

 静寂は多少失われたが、話し相手がいるのも、たまには悪くないかもしれない。


 ◇◇◇


 アリスは、心の中でガッツポーズをした。


 (やった……! 許可もらえた!)


 これで堂々とここに居られる。

 そして、「記録係」として堂々とカメラを回せる。

 全世界に拡散中であることは……うん、今夜、落ち着いたら必ず説明しよう。怒られるかもしれないけれど、今はまだ、この奇跡のような時間を終わらせたくない。


 コメント欄が、祝福とツッコミで埋め尽くされている。


『弟子入り成功www』

『甘いな剛田』

『記録係(※拡散力S級)』

『師匠呼び定着してて草』

『アリスちゃん、その位置は神席だぞ。代わってくれ』


 アリスは端末のカメラ位置を調整し、焚き火越しに剛田の横顔をフレームに収めた。

 この人は、まだ知らない。

 自分の「ただのキャンプ」が、世界中を巻き込む大騒動に発展していくことを。


 アリスは小さく笑って、焚き火の暖かさに身を委ねた。


---

**【本日のキャンプメモ】**

**道具:** ドワーフ銀のカトラリーセット。ドワーフの鍛冶師が「熱くならない加工」を施した逸品。熱々のステーキを食べても、驚くほど口元が熱くならない優れものだ。

---



――――――――――――作者からのお願い―――――――――――

深夜に読んでいる方、飯テロ失礼しました!

ドラゴンの脂、絶対に美味しいですよね……。


アリスが無事に(?)弟子入りできてよかったと思った方は、応援ハートをお願いします!


次回、剛田の朝のルーティン(素振り)が、S級ダンジョンの地図を書き換えます。

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