選ばないこと
休日、私はホームセンターへ行った。浴室用の手すりが何種類も並んでいる。金属の冷たいもの、木目の温かいもの、太いもの、細いもの。母の手がどれに触れるかを想像すると、どれも決め手がなくなる。私は結局、店員に「一番よく売れているやつ」を聞いた。選べないなら、それで充分だと思った。
取り付けの日、私も立ち会う。業者が電動ドリルを鳴らし、浴室の壁に穴を開けていた。母と私は入口に立ち、その様子をじっと見つめている。鋭いドリルの回転刃がタイルに食い込む音に、自分の背筋が強張るのを感じた。
取り付けが終わってから、母は恐る恐る手すりに手を伸ばした。その指先がわずかに震えている。私は無意識に手を貸そうとして、途中で止めた。私の手が母の身体に触れるとき、そこにはどうしても「介助」の意味がすべり込む。母もそれを察したのか、私の指先が届く前に、自分から力をこめて、ぐっと手すりを握り込んだ。
「これなら大丈夫そうね」
母はそれだけ言った。私は「よかった」と返したが、その言葉が誰のためのものなのか分からなかった。
◇
近所のスーパーに寄った。特売日でもなく、混雑もしていない時間帯だった。カゴの中には、最低限の野菜と豆腐だけを入れた。選ぶという行為には、必ず「こちらではない方」を捨てる判断が伴う。意図的だとしても、偶然だとしても、今はその些細な決断さえもが
レジを待つ列で、前に並んでいた高齢の男性が財布を落とした。派手な音はせず、小銭が数枚、乾いた音を立てて床を走った。私もしゃがみ込み、レジ台の下に潜り込んだ硬貨を探す。
「……あ、私のは一枚だけかも」
老人が困ったように笑い、自分の手のひらにある小銭と見比べた。「どっちが私のですかね」
彼に訊かれたが、答えようがない。さっきまで床に落ちていた二枚は、手のひらの上でただの硬貨になっている。どちらが老人ので、どちらが古い落とし物か。区別はもうつかなかった。
「分かりません」
私は、自分の声がひどく素っ気なく響くのを聞いた。「どちらでも、いいと思います」二枚とも、老人の差し出した手のひらに滑らせた。自分の指先に残っていたわずかな重みが消え、代わりに薄い空白が残る。
「でも、これ多いんじゃ……」
「区別がつかないんです。だから、どちらも受け取ってください」
私は、それ以上言葉を重ねるのをやめた。
床から拾い上げた瞬間に、差はなくなる。違いがないのに、選択を求められる。だから二枚とも差し出した。私は選べない。
◇
母の通院に付き添った日、待合室は混んでいて椅子が足りなかった。私は立ったまま壁に寄り、母を座らせた。母は当然のように腰を下ろす。私たち母娘はそういう距離で生きてきた。診察を終えて外へ出ると、母は急に歩く速度を落とした。私は隣に並び、迷ってから口を開いた。
「……大変だった?」
何を指しているのか自分でも分からない問いだった。
母は一拍置いて、「まあね」と答えた。それ以上は続かなかった。
その日の夕方、実家玄関の棚を片付けていると、奥から茶色く変色した古い封筒が出てきた。「それ、たぶん写真」、母が言った。広げてみると、赤ん坊の私を抱く、若かりし頃の母がいた。写真は四隅が白く擦れ、誰かが何度もそこを指でなぞった跡がある。
写真の中の母は笑っていたが、その視線は私の顔ではなく、私の少し横、何もない空間を見つめているように見えた。
「これ、よく見てたの?」
私が訊くと、母は視線を写真から外した。
「たまにね、ごくたまに」
それだけだった。私は封筒に写真を戻し、封をしないまま棚に置いた。
◇
一人暮らしのアパートに戻り、夜、ふと考えた。もし、あの存在に名前をつけるとしたら。音の響き、漢字の形。浮かびかけたところで、私はやめた。名前が浮かぶと、その名前が呼ばれる場面まで想像してしまう。呼ばれる場面を想像すると、私が呼ばれない場面も浮かび上がる。今の私には、どちらも
机の引き出しには、母子手帳のコピーがある。鉛筆の二本線が残ったページ。私はそこに何も書き足さない。紙は薄く、折り目だけが少しずつ増えていく。
またある夜、実家から電話が来た。用件はない、と母は言った。電気代が上がった、近所の猫が子猫を生んだ、そんな話が続く。しばらくして、母が言い淀んでから言葉を発した。
「……あの子のこと、もし考えたらさ」
「うん」
「考えること自体は、悪くないからね」
母はそこで急に天気の話に変えた。私は返事をしながら、喉の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。次の言葉が出そうで、出ないまま、ひゅうひゅうと息ばかりが続いた。
電話を切ったあと、引き出しを開けた。母子手帳のコピーを取り出し、折り目を指でなぞる。紙は薄く、頼りない。半分に折ってまた戻した。捨てない。ただ戻す。引き出しは、最後まで押し込まなかった。
電気を点けずに冷蔵庫を開けた。白い光の中で卵が二列に並んでいる。パックの中に、一つ空席がある。そのペアの卵を手に取る。殻は冷たく硬い。指先の温度が少し奪われる。私はしばらく立っていた。卵の中で何かが始まることはない。始まらないことを、知っている。
卵を元の場所に戻す。扉を閉める。光が消える。
布団に入る。
部屋にシンと包まれる。
胸の奥に、まだある。
私は目を閉じた。
卵のまま 柴田 恭太朗 @sofia_2020
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