卵のまま
柴田 恭太朗
題をつけないこと
一人暮らしの母から風呂場で転んだと連絡を受けたのは、職場の机に向かっていた平日の夕方だった。
電話口の母は妙に落ち着いていて、救急車は呼ばなくていい、近所の人に送ってもらって病院にいるから、と最初に言った。その言い方が、もう一度誰かに説明したあとみたいに整理されている。私は質問を差しはさむきっかけを失ったまま「仕事が終わってから、行く」とだけ言った。
電話を切った後、マウスを握ったまま、画面を見ているだけの時間が伸びた。モニターには開きっぱなしの資料。上の欄に「題名」とあり、空白のまま点滅しているカーソルが見えた。題を入れれば作業は先に進むのに、今は適切な文字が浮かばない。ファイルの保存もせず、ウィンドウを閉じた。閉じれば、いったん無かったことにできる。
駅へ向かう道は乾いていた。師走の風は冷たいが、まだ強くない。吐く息が白くならないことに、私はなぜか安心した。白くなったところで困るわけでもないのに、今は白くしない方がいい、と身体が勝手に決めたみたいだ。
電車は少し混んでいた。空いた席が見えたが、私は立ったまま、吊り革を握った。広告の文字を上目づかいで追い、意味を読まずに色と形だけを眺める。どうせ頭に残らない。
病院の廊下は消毒液の匂いが濃く、床が妙に光っていた。受付で母の名前を告げると、番号の書かれた紙を渡され、待合の椅子を示された。椅子は固く、座ると背中が直角に整えられる。壁の注意書きはびっしり貼られていて、読もうにも目がすべる。私は諦めて、番号紙を指ではじいた。
呼び出しの前に、受付の女性がカルテを確認しながら顔を上げた。
「ご家族の方は……」
言いかけたところで、私は先回りして「自分だけです」と答えた。女性は一瞬だけ視線を止めたが、すぐに「娘さんお一人ですね、分かりました」と言い、紙を差し出した。その一連の短さが、かえって胸に残った。
母は処置室から出てきたところだった。頭に小さな包帯を巻いているが、顔色は悪くない。私を見ると少しだけ笑い、「びっくりさせてごめんね」と言った。私は首を横に振る。七十そこそこの母が、老いたという現実が大きかった。
医師はカルテを見ながら「年相応ですかね」と言った。転倒防止の手すり、滑り止め、浴室の段差。必要な対策が淡々と並んでいく。原因や意味には触れない。そのことに、私はほっとした。余計な話が増えない、という安心だった。
検査の合間、母は売店で買った温い緑茶を少しずつ飲んだ。蓋を回す指が以前より慎重で、すべらないよう確かめるように回している。私は気づいたが、口に出さなかった。言えば、母に形容詞が一つ増える。
母に付き添って半年ぶりに実家へ戻ると、彼女は「今日は休む」とだけ言って自室に引っ込んだ。私は台所に残り、黙って洗い物を始める。ここは子どもの頃から何も変わっていない。流しの高さも、棚の位置も、引き出しの重さも。身体が勝手に手順を思い出し、皿は泡にまみれてすすがれていく。蛇口から出るお湯は、なかなか温まらなかった。
食器棚の上段に、やけに大きい湯のみが一つだけしまいっぱなしになっているのが見えた。使っていた人の記憶はあるのに、いつから使わなくなったのか思い出せない。手を伸ばしかけて、やめた。触れば、何かを掘り起こす。
気を紛らわすため、棚の上段を開けた。使われていない紙袋がいくつも重なり、その奥に淡いピンクの手帳が見える。角が丸くなっている。母子手帳だった。私のものだろうと思い、深く考えずに手に取る。少し粉をふいた紙の匂いが、乾いた布みたいに古い。
ページをめくると紙が柔らかく毛羽立っている。何度も開かれた形跡がある。最初の記載で指が止まった。名前がない。代わりに日付と週数だけが書かれ、その横に鉛筆の線が二本、並んでいる。線は途中で消され、紙が毛羽立っていた。消しゴムで強く擦った跡が、光の角度で浮かぶ。消したかったのに消えなかったものの輪郭が、そのまま残っている。
廊下を歩く音がして、母が台所の入り口に立った。視線が私の手元に落ち、母は一瞬だけ眉を動かした。驚きというより、見られたくなかったものを見られたときの、小さな硬さだった。
「それ、見つけたのね」
声は平坦だった。私は手帳をテーブルに置いた。問いかける言葉を探したが、うまく見つからない。
「最初はね、二つ、あったのよ」
母はそこで一度言葉を切った。湯のみを持ち上げ、口をつけるふりをして、結局飲まなかった。湯のみの縁が、ほんの少しだけ震える。言い直すように続けた。
「先生がね……長い話はできないって。今ここでどっちか決めなさいって言って」
母はそこで口を閉じた。決めたのが母なのか、決めさせられたのか、その境目を言葉にしないまま。
何かを訊けば、この出来事に題がつく。題がつけば、もう元の距離感には戻れない気がする。私は視線を落として、母の次の言葉を待った。
「たぶん二卵性だろうって。まだ確定しないけど、そんな感じだって」
私は長く息を吸って、吐いた。
――この生は、二択の偶然か。
理由を聞きたい衝動は確かにあった。でも、聞けばきっと母は答える。答えが出れば、次は私が言葉を求められる番。そう思って、口を閉じていた。
「卵のままだったの」
母はその表現だけを正確に選んだ。ただ、卵のまま、次へ進めなかった。母の声は淡々としているのに、その淡々さが私の言葉を奪った。
私は手帳の二本の線を見たまま、そこから目を離せなかった。
その夜、私は洗面台で手を洗い直した。石けんの匂いが立ちこめても、まだ足りない気がして、もう一度。指先が赤くなるまでこすって、やっと蛇口を閉めた。
水滴が落ちる音だけが残り、私は手をシンクの上に浮かせたまま、しばらく動けなかった。
◇
翌朝、同じ時間に起きて同じ電車に乗った。偶然、空いた席はあったが、私は立ったまま吊り革を握った。座ると落ち着かない。立っている方が楽だった。立っていれば、他人の席を奪わずに済む。そう思うと、胸の奥が少し静かになる。
職場では、年末に使う資料作成が始まっていた。私は「題名」を飛ばして、すぐ別の欄へ移った。本文から先に埋める。数字や箇条書きはスムーズに埋まっていくのに、題だけが最後まで残る。
昼休み、同僚が覗き込んで言った。
「題、まだ?」
「うん」
「空欄だと、目次作りに困るんだよね。仮でいいからさ」
「仮も、まだ」
同僚は笑いきれない顔をして、「締切までにね」と言った。私は返事をせず、保存だけしてファイルを閉じた。
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