幸せになりたい。

西しまこ

欲望

 妊娠したい。

 その考えに囚われている。もうずっと。

 妊娠したい。

 ねえ、一緒に検査に行って欲しいの。

 忙しいんだよ。自然に出来るのを待てばいいだろう。

 でも、あたしたち、三十を超えたわ。

 今どき、三十を超えたくらい、平気だろう。気になるなら、君だけ行けば。

 そんなの、前に行ったわ。言わないけれど。あたしは正常だったの。次はご主人と一緒に来てくださいって言われているの。あなたのこと、それからずっと誘っているけれど、何だかんだと言って、あなたは来てくれない。

 あたしは誕生日が来るたびに落ち込む。いったいいつになったら赤ちゃんをこの腕に抱けるのだろう? あたしは結婚したらすぐに子どもが欲しかったのに。ちゃんと、そういう約束で結婚したのに。結婚したとたん、あの人は妊娠とか子育てから目を逸らし始めた。

 じゃあ、どうしてあたしと結婚したのだろう。子どもを産まないのであれば、結婚する意味なんて、あたしには無かった。

 免許証も通帳もマイナカードも、ありとあらゆるものの名前が変わった。ただただめんどくさかった。昔、結婚して名前が変わることに憧れる少女小説を読んだことがある。そんなの、実際は全く嬉しくない。

 彼の両親はいい人だ。

 だけど、ちくりちくりとあたしを刺す。

 お掃除が出来ていないわね。働いているから仕方がないわね。洗濯物はこうして干すと皺が寄らないのよ。どうして夜に洗濯物を干すのかしら。お日様に当てないと駄目よ。シーツは一週間に一度洗うといいわよ。そうそう、布巾はきちんと漂白してね。この間送ったお野菜はどうだったかしら。ちょっと珍しいものだったのよ。

 善意だ。

 ところで、そろそろ……かしら。……ああ、ごめんなさい。つい、ね。私のお友だちが二人目の孫が出来たって言うから、ちょっと羨ましくて。ええ、いいのよ。あなたもお仕事が忙しいんですもの。

 妊娠したいんです。

 すごく。

 あたしは妊娠して子どもを産むために結婚したの。

 だけど、あなたの息子は少しも協力的じゃないんです。病院に行ってもくれない。

 ……もしかして、彼に何か、あるのかしら。

 そんな考えが頭を過る。

 ああ、どうして彼にもブライダルチェックを受けてもらわなかったのだろう。精液の検査が含まれていたはずなのに。彼の母親に言われて、あたしだけが受けた。あのとき、どうしておかしいと思わなかったのだろう。

 妊娠したい。

 妊娠したい。

 毎日、ほとんどそのことしか考えられない。

 生理が来るたびに落ち込む。また妊娠しなかった。排卵日も分かっているのに、そこに向けてしているのに、どうして妊娠しないのだろう。

 友だちから赤ちゃんの写真が送られてくる。夜泣きが大変だとかいう、不幸に見せかけた幸せ自慢をされる。あたしだって、赤ちゃんが欲しい。

 妊娠したい。

 赤ちゃんが欲しい。

 たぶん、夫には子種がないのだ。

 何のために結婚したのだろう。

 結婚して、食事の支度も大変になったし洗濯物は倍以上に増えた。どうして。これじゃあ、一人の方がずっと楽だった。だけど、あのときは孤独に耐えられなかった。

 あたしは結婚して赤ちゃんを産んで、幸せになりたかっただけ。

 妊娠したい。

 赤ちゃんを産んで、幸せになりたい。

 ネットで精子を提供してくれる人を見つけた。血液型が夫と同じ。

 排卵日の直前に精子を注入する。それから、夫をベッドに誘う。

 快楽なんでどうでもいいの。あたしは妊娠したいだけ。

 あたしの卵が受精卵になって、分裂して人間になっていく。

 そのことだけを考えながら、夫に抱かれる。

 ほとんど何も感じない。

 妊娠したい。

 だって、妊娠したら幸せになれるから。

 あたしは幸せになりたいの。

 それだけ。





  了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

幸せになりたい。 西しまこ @nishi-shima

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画