かぶとむしのたまご

南吉尋

今日から昆虫人間!

アラームが鳴る前にベッドで眼を覚ますと、昆虫人間になっていた。目の前で細く、長く、黒い鋭いかぎ爪状のなった両手の指がわしわしと動いている。ぼんやりとした頭でベッドから立ち上がりビール缶を踏みつぶした私の脚は、異様に細くなってしまっていてもはや黒い骨が剥き出しの状態と言ってもよかった。それでも問題なく立ち上がり歩くことができる、昆虫のパワーとはすごいのだなと思った。昔多摩動物園の昆虫園でみたが昆虫が人間のサイズに巨大化した際は自重により立ち上がることすら敵わないと書いてあった、だがこうして実際に昆虫化してみると問題なく立ち上がり歩き回ることができる。もはやこれは科学とかでは説明のつかない事態になってしまっている。鏡の前にいるのは昨日までの人間だった私じゃあなく、昆虫人間となった私だと受け入れる他ない。


それにしてもなにも違和感がない。ずっとむかしからこうだったんじゃないかとすら思える。しかし腕にだけは違和感がある、乳歯が抜け落ちるようなぐらぐらとした感覚がしていた、試しに細くなった右腕を鋭いかぎ爪になった左指で撫でてみるとスパッ亀裂が入り、右腕が縦に真っ二つになった。痛みは無い、右腕が二本になっただけのことだ。甲虫の手足は六本あるんだからなにもおかしくはない。これで正しいのだ。さらになんでもできるのだという万能感まで沸き上がってくる。昆虫は素晴らしい。私は反転し鏡で自分の裏側を見た、黒光りしていて硬そうな外羽がある、ならば内側にあるものは決まっている。背中に力を込める、そうするとバネみたいな勢いで外羽は開き、棚に置いてあったカラのウイスキー瓶を壁に叩きつけて粉砕しながら中に折りたたんで収納してあった半透明な翅が開き、私は思わず鋭くなった指先をぐっと握り込んでガッツポーズをした。子供時代からの夢、空を飛ぶということがついにできるのだ。


自宅であるマンションの六階の窓を開き、縁に足をかけるとぶおんぶおんと翅は強い音をたてていつでも飛び立てる準備ができていることを知らせてくれている。やれるぞ、私は飛べる、目的地は無い、ただどこへでもいいから自由に飛んでいきたかった。部屋中のつまみの袋やカラのアルミ缶が後方にすっとんでいく。テイクオフだ、私は空を駆ける。重力が反転する、真っ逆さまに落ちていく、下に向けてアクロバティック飛行をしているのだ。地面すれすれで宙がえりをしよう、根拠はなにもないが出来るという自信がある。昆虫は誰から教わることもなくそれをこなすことができる、親の世話のなく、卵から勝手に生まれ、食べるべき物も知っていて、成長し、蛹になり、成虫となって飛んでいく。知らないことなどなにもない。私は私が飛べるということを知っている。アスファルトが近い、そろそろ反転しなくては。どうやって? わからない、知らない、ブレーキは? 上昇手段は?


なにもわからない。

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かぶとむしのたまご 南吉尋 @nanbei-san333

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