第8話 遥香さんと美術館デート2
遥香視点
コーヒーを飲みすぎて、トイレに行きたくなってきた。
展示室をいくつか回ったあたりで、足取りが鈍くなる。
一つひとつの作品の前で立ち止まる時間が短くなり、通路に出るたび、無意識に案内表示へと視線が向いてしまう。
「……すみません」
できるだけ控えめに声を落として、隣を歩くハヤトさんに声をかけた。
「さっきのコーヒー、ちょっと飲みすぎたみたいで」
困ったように笑いながら、壁の案内図を指先でなぞる。
「少しだけ、トイレに行ってきてもいいですか?」
彼がすぐにうなずいてくれて、私はほっと息をついた。
「ありがとうございます。すぐ戻りますね」
そう言って通路の奥へ向かう。
美術館特有の静けさの中で、自分の足音だけが遠ざかっていくのが妙に意識に残った。
——
用を済ませ、手を洗いながら、少しだけ深呼吸する。
戻ろうと通路に出た、そのときだった。
少し離れた場所で、聞き慣れない声が重なっている。
展示を見るような距離感ではない。視線の向きで、すぐに分かった。
ベンチに座っているのは、ハヤトさん。
その前に立つ、年上に見える女性が二人。
──あ、これは。
足を止めるより先に、状況を理解していた。
距離の詰め方、声の調子。好奇心と値踏みが混じった、あまり気持ちのいいものではない視線。
私は迷わず歩みを早めた。
ヒールの音が、静かな床に少しだけはっきり響く。
「……何か、問題でも?」
自分でも驚くほど、落ち着いた声が出た。
ハヤトさんの隣に立ち、自然な距離で位置を取る。近すぎず、でも離れない。
“一緒にいる”という立ち位置。
「この子、連れなんですけど」
言い切る。
柔らかくも、曖昧にもしない。
一瞬、空気が止まった。
二人の視線が私とハヤトさんの間を行き来する。
「あ……そうだったんだ」
「ごめんね、知らなくて」
さっきまでの軽さは消え、言い訳めいた笑顔だけが残る。
それ以上何も言わず、二人は視線を逸らして展示室の奥へと去っていった。
静けさが、ゆっくりと戻ってくる。
私はそれを見届けてから、隣を見る。
「……大丈夫でした?」
「はい。ありがとうございます」
短いやり取りだったけれど、それで十分だった。
私の中にあった緊張も、少しずつほどけていく。
「一人にしてしまって、すみません」
「いえ」
それ以上、言葉はいらなかった。
状況も、気持ちも、ちゃんと共有できている。
「続きを、見ましょうか」
そう言って歩き出す。
今度は、彼のすぐ隣。
さっきよりも、少しだけ距離が近くなる。
美術館を出ると、外の空気はさっきよりも少しだけ柔らいでいた。
私は足を止め、スマートフォンで時間を確認する。
「……ちょうどいいですね」
そう言って顔を上げ、隣にいるハヤトさんを見る。
「実は、この近くに予約してあるお店があるんです。歩いて十分くらいで」
口にしながら、もう流れは決まっていると自分でも分かっていた。
静かに差し出すようなつもりで、言葉を選ぶ。
「予約、してたんですね」
「はい。展示を見たあと、ゆっくりできるところがいいかなと思って」
今日という時間を大切にしたかった。
それが、ちゃんと伝わっている気がする。
二人で並んで歩き出す。
大通りから一本外れると、車の音が少し遠のき、街が静かになる。
「こういう流れ、慣れてます?」
ぽつりとした問いに、私は少しだけ照れて笑った。
「……慣れてるというより、今日はちゃんとしたかっただけです」
店は落ち着いた外観で、主張しすぎない看板がかかっていた。
扉を開けると、柔らかな照明と静かな空気が迎えてくれる。
「ご予約の、水瀬様ですね」
名前を告げると、すぐに案内された。
通されたのは窓際の席で、外からの視線も気にならず、ほどよく区切られている。
椅子に腰を下ろし、私はほっと息を吐いた。
「美術館のあとに、こういう場所に来るの……ちょっと大人っぽいですね」
隼人くんが冗談めかして言う。
私は、自然と頬が緩む
「でも、落ち着きます」
「ええ。静かで、話しやすいです」
料理が運ばれてくると、会話はいったん止まり、二人で静かに食事に向き合った。
ナイフとフォークの音が控えめに重なり、周囲のざわめきは遠い。
「……大切な人と食べると、こんなにもおいしいんですね」
思わずそう口にすると、彼はうなずき、もう一口運んだ。
「遥香さん、今日はありがとうございます」
「こちらこそですよ」
皿が空になり、デザートの前。
私はそっとバッグに手を伸ばし、中から小さな包みを取り出してテーブルに置く。
「……これ」
視線を向けられて、少しだけ照れながら続けた。
「小学校、卒業でしょう。お祝いです」
包みの中身は、落ち着いた色の二つ折りの財布。
装飾はなく、革の質感がそのまま伝わるものだ。
「中学から使えると思って」
それだけ言って、軽く笑う。
特別すぎず、でも日常に寄り添うものを選びたかった。
「ありがとうございます。革がいい色で、かっこいいですね」
そう言って嬉しそうにする姿を見て、胸の奥に静かな満足感が広がった。
食事が終わり、それからしばらく他愛ない話を続けてから店を出る。
外に出ると、空は夕暮れに近づいていた。
街灯がぽつり、ぽつりと灯り始める。
私は立ち止まり、何気なく息を吐く。
帰り道の方向に視線を向けたまま、すぐには歩き出せなかった。
──もう少し、この時間が続けばいいのに。
そんな気持ちを、言葉にはしないまま。
「……もう、帰らないとですね」
そう口にしたはずなのに、声には自分でも分かるほど迷いが滲んでいた。
立ち止まったまま、私は前を向いたままになる。
少しの沈黙のあと、隣から落ち着いた声が届く。
「もし、時間があるなら」
確かめるような、静かな言い方だった。
「もう少しだけ、歩きませんか」
どこへ行くのかは言わない。
ただ「もう少しだけ」という言葉だけが差し出される。
一瞬、驚いて目を瞬かせる。
それから、胸の奥がふっと軽くなって、思わず小さく笑ってしまった。
「……もう少しだけ、ですね」
歩き出してから、ほんの少し。
私たちは、同時に足を止める。
街灯の下で、建物の輪郭がはっきりと浮かび上がっていた。
派手すぎない照明、どこか曖昧な色合いの看板。
私は無意識に、それを見上げてから、隣を見る。
自分でも驚くほど、動揺がそのまま表情に出ているのが分かった。
「……ここって、ラブホテル……ですよね?」
「遥香さんと来たかったんだ」
胸がどきどきしすぎて、ハヤト君に聞こえてしまうんじゃないかと思ってしまう。
「まだ時間ありますよね?」
「……あります……明日も休みです」
「じゃあゆっくりできますね。中入りましょう」
そう言ってハヤト君に手にひかれて中に入っていくのだった。
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