第7話 遥香さんと美術館デート1
遥香視点
その日は午後半休で仕事終わらせ家に帰っていた。
クローゼットから落ち着いた色のニットを選び、袖を通す。鏡に映る自分は、いつもより少し柔らかい表情をしている気がした。
支度の途中でスマホを手に取り、少しだけ迷ってからアプリを開く。
──LUNET。
短い文でいい。重くならないように。
遥香
『今日は午後からお休みなんですが、もし時間が合えばお茶しませんか』
送信してから、ほんの数秒で返事が来た。
隼人
『ありがとうございます。ぜひ。どこに行きましょうか』
簡潔で、余計な装飾のない文章。
それなのに、不思議と安心する。
遥香
『15時頃、駅前の喫茶店灯りでどう? そのあと、美術館でも。静かでいいと思って』
なるべく、落ち着いて話せる場所を選んだつもりだった。
返事はすぐに返ってくる。
隼人
『いいですね」
スマホを置き、バッグの中身を整える。今日は、少しだけ丁寧に過ごしたい。
——
約束よりずいぶん早く駅前に着いてしまった。
考えた末、先にカフェに入ることにする。
昼前の店内は人が多く、話し声が控えめに重なっている。窓際の席に案内され、ホットコーヒーを頼んだ。
両手でカップを包むと、指先からじんわり温かさが伝わってくる。
時計を見ると、まだ一時間以上ある。
それでも、席を立つ気にはならなかった。
待つ時間が、嫌ではなかったからだ。
——
ドアのベルが鳴った瞬間、反射的に顔を上げる。
約束より十分ほど早いのに、そこにいたのは彼だった。
「早かったですね」
声をかけると、少しだけ照れたように会釈する。
「混みそうだったので」
その気遣いが、嬉しい。
昼はもう済ませたと言う彼に、パフェを勧める。
遠慮しながらも受け取る姿を見て、思わず笑ってしまった。
春休みの話、美術館の展示の話。
特別なことは何も話していないのに、会話が途切れない。
この時間が、静かに積み重なっていく感じが好きだった。
「そろそろ行きましょうか」
そう言って席を立つ。
——
カフェを出た瞬間、思った以上に風が冷たかった。
隣を歩く彼が、少し肩をすくめるのが目に入る。
「寒くないですか?」
平気だと言われたけれど、私は立ち止まった。
コートを脱ぎ、彼の肩に掛ける。
「これ、羽織ってください」
戸惑う表情に、小さく笑う。
「私は大丈夫ですから。中に着てますし」
襟元を整えると、指先が一瞬触れた。
それだけで、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「似合ってますよ」
そう言うと、彼は照れたように笑った。
並んで歩き出すと、自然と距離が近くなる。
無理に縮めたわけじゃない。ただ、そうなっただけ。
前方に見えてきた美術館を眺めながら、私は思う。
今日は、“分かる”日じゃなくていい。
ただ、一緒に見る日であれば、それでいい。
美術館の自動扉をくぐった瞬間、外の冷たい空気から切り離されたような静けさに包まれた。足音は柔らかな床に吸い込まれ、自然と声も小さくなる。受付でチケットを受け取り、案内図の前で隣に並んで立ち止まった。
「今日は常設展からですね」
私が指先で順路をなぞると、ハヤトさんはうなずき、壁に掲示された作家名を一つずつ目で追っている。
展示室に足を踏み入れた瞬間、彼がわずかに背筋を伸ばしたのが分かった。静かな空間に、絵画が整然と並んでいる。──知識がある人が来る場所、そんなふうに感じているのかもしれない。
壁一面の作品を前に、彼は少し距離を取って立ち止まり、題名と作家名を見比べてから首をかしげた。
「……正直、何がすごいのかは、よく分からないですね」
とても素直な声だった。
私は否定も訂正もせず、ただ少しだけ微笑む。
「分からなくていいんですよ。最初は」
彼はもう一度、今度は説明を探すのをやめて絵を見る。色の重なりや線の多さを、静かに目で追っている。
「なんか……静かなのに、落ち着かない感じがします」
「それ、いい見方だと思います」
私は作品の少し横に立ち、専門的な言葉は使わずに話す。「ここが好き」「この色が気になる」。感覚の話だけ。
彼はうなずきながら聞いて、時々「へえ」と短く相槌を打つ。
彫刻の前では、ぐるりと一周した彼が言った。
「写真で見るより、存在感ありますね。近いと、ちょっと緊張します」
「分かります。立体は、見られてる感じがしますよね」
知識はなくても、感じたことは言葉にできる。
そのやり取りが、少しずつ彼の肩の力を抜いていくのが分かった。
ベンチに腰を下ろす。
「詳しくないですけど……いろんな作品があって面白いですね。来てよかったです」
私は静かにうなずいた。
「それは良かったです。私も、ハヤトさんと一緒に回れて楽しいです」
その作品の前を離れてからも、私はどこか落ち着かなかった。
展示を見ているはずなのに、視線が何度も彼の方へ逸れてしまう。
「……さっきの作品」
声を潜めて、言葉を選ぶ。
「一人で見てたら、きっと違う印象だったと思います」
彼がこちらを見る。私は少しだけ困ったように笑った。
「隣にハヤトさんがいると、“好き”って気持ちが、すごく素直になるんです」
「説明しなくていいし、分からなくてもいいし……ただ一緒に見てるだけなのに」
歩調を緩めて、ほんの少しだけ距離を詰める。
「それが、嬉しい」
展示室の静けさの中で、その言葉は自分でもはっきり聞こえた。
作品よりも、人よりも、今は隣にいる存在のほうが意識に上る。
彼が何か言おうとした気配を感じて、私は先に続けた。
「こういう場所に、パートナーの男性と来られるの、ずっと憧れてたんです」
照れも、躊躇もある。
それでも、目は逸らさない。
「だから……今日は、それだけで満足です」
そのまま、次の展示へ進む。
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