第5話 卒業式

 校舎の門をくぐった時点で、空気が一段低くなったように感じられた。

 だいぶ暖かくなってきたが朝はまだ寒いだがその寒さのせいだけでは無いようだった。正門脇に立つ先生たちの表情が、固い感じがする。声を張り上げて注意する者はいなく、代わりに静かな会釈と短い挨拶だけが交わされていた。


 昇降口では、靴箱の前に人が集まっているのに、騒がしさはない。上履きを履き替える音、ローファーが揃えられる乾いた響きが、やけに大きく聞こえる。女子たちは互いの服装を確かめ合い、リボンの位置やスカートの皺を直してやる。その手つきは丁寧で、普段より距離が近い。


「早いね」

「だって……今日が最後だし」


 そんな短い会話が、あちこちで交わされては消えていく。

 視線は自然と集まり、ハヤト君おはようと声をかけてくるが、みんな嬉しそうに声をかけてくるが、どこか寂しげでもあった。

 そう今日は何を隠そう卒業式なのであった。


 少し遅れて現れたレンが、こちらに気づいて手を振る。


「おはよう!」

「おはよう、今日もレンは元気だな」


 レンは周囲を一度見回し、すぐに前を向いた。


「今日で、レン君とハヤト君の見納めかぁ」


 女子の一人がつぶやく。まぁ女子からしたら貴重な男子だからな。卒業後はどこに行くかは言ってなかったけど、日面中学校には行かない事だけは伝えてる。


 体育館へ向かう通路に差しかかると、外の光が強くなった。窓越しの空は高く、冬の名残を残しながらも、どこか春めいている。通路に並ぶ生徒たちは、歩幅を合わせるようにゆっくり進む。誰かが深呼吸をし、その音につられて別の誰かも息を整える。


 体育館の前で一度、列が止まった。

 扉の向こうから、微かなざわめきと、布が擦れる音が漏れてくる。先に入っている保護者たちの気配だ。整えられた空気が、扉一枚を隔てて待ち構えているのがわかる。


 合図とともに扉が開く。

 冷えた空気が足元から流れ出し、同時に視線がこちらへ集まった。並んで一歩踏み出すと、床に靴音が揃って響く。拍手はまだ起きない。ただ、静か注目されてるのだが。かえって緊張する


 保護者席はすでに埋まっていた。正装の大人たちが、背筋を伸ばしてこちらを見ている。その中に、ひときわ落ち着いた姿がある。母さんだ。

 母さんは通路側の席で、膝に手を重ね、こちらを見つめていた。目が合うと、小さく頷く。その仕草に少し安堵する


 レンは、全体的にカチコチだった。前だけは向いているがかなり緊張しているのがわかる。


 指定された席に腰を下ろすと、椅子の脚が床に触れて小さな音を立てた。その音さえも目立つほど、体育館は静まり返っている。前列から順に卒業生が着席していき、列が整うにつれて、空気が一層張り詰めていった。


 レンは背筋を伸ばし、膝の上で手を揃えている。さきほどまで落ち着かなかった指先は、今はきちんと重ねられていた。

 女子たちも同じように姿勢を正し、スカートの裾を整えてから前を向く。誰かが深く息を吸い、その気配が連なっていく。


 保護者席からは、布擦れの音や小さな咳払いが聞こえた。


 やがて司会の教師が壇上に立つ。マイクが調整される短い雑音が響き、それを合図に、体育館のざわめきが完全に消えた。


「これより、花霞小学校卒業式を開式します」


 その一言で、式は本編へと踏み出す。


 司会の言葉に続き、全員が起立する。

 国歌斉唱だ。前方のスクリーンに歌詞が映し出され、伴奏が静かに流れ始め、歌い始める。レンの横顔は真っ直ぐで、声は小さいが確かだった。


 続いて校歌。聞き慣れた旋律に、空気が少し緩む。歌い終わると、再び着席の合図。体育館は元の静けさを取り戻し、壇上に校長が立った。


 祝辞は穏やかな口調で進む。


 やがて卒業証書授与の案内が入る。


 名簿が読み上げられ、最初の名前が呼ばれる。返事の声が響き、通路を歩く足音が続く。

 順番が近づくと少しだけ緊張する。


「──天城隼人」


 名前が呼ばれ、短く返事をして立ち上がる。椅子の音が静かな体育館に響き、視線が一斉に集まった。通路を進む間、保護者席の方を一瞬だけ見ると、沙織が静かにこちらを見ていた。


 壇上で証書を受け取る。軽く一礼すると、拍手が広がった。


 席に戻ると、レンが息を整えてるのが見えた。

 次の名前が呼ばれ、式はそのまま、淡々と進んでいく。次はいよいよレンの番だった


「──佐久間蓮」


 名前が呼ばれ、少し遅れて返事が返る。

 立ち上がると、右手と右足が同時に前へ出ている。動きがちぐはぐなまま通路へ出る。


 一歩進むたびに、手と足が同時に動く。歩いているはずなのに、行進のようで、本人もどうしていいかわからない様子だ。それでも立ち止まらず、必死に前だけを見て進む。そのぎこちなさに、周囲の空気が一瞬だけ和らぐ。


 壇上に上がるときも同じだった。段差で一瞬バランスを崩し、手と足が同時に出るまま証書の前に立つ。両手で受け取ると、深く礼をする。拍手が、少しだけ温かくなった。


 戻るときも歩調は変わらない。最後まで手と足が揃ったまま席にたどり着き、腰を下ろしてからようやく大きく息を吐いた。

 膝の上で手を握り直し、ようやく動きが止まる。その横顔は、緊張から解放された安堵で、少しだけ柔らいでいた。


 司会の声が、次の進行を告げる。


「続いて、卒業生代表の言葉です」


 体育館の空気が、わずかに変わった。

 ざわめきはなく、ただ意識だけが一点に集まっていく。名前が呼ばれる前から、視線はすでにこちらに向いていた。


 卒業生代表は俺だ

 席から立ち上がると、椅子の音が静かに響く。


 原稿を手に、演台の前に立つ。

 一度、会場を見渡す。前列の女子たちは背筋を伸ばし、保護者席では何人かが自然と姿勢を正している。


 言葉を読み上げる。

 入学した日のこと、友達と過ごした日々、失敗や叱られた記憶。どれも特別に飾られてはいないのに、体育館の中で重みを持って響く。


「……私たちは、今日、この学び舎を卒業します」


 その一文に、女子の肩が小さく揺れた。

 誰かが息を吸い、誰かがハンカチを握る。蓮は前を向いたまま、膝の上で手を強く組み直している。


 言葉が締めくくられ、深く一礼する。

 一瞬の静寂のあと、拍手が起こった。先ほどよりも、はっきりとした音だった。


 その後卒業式はつつがなく終わった。


 体育館を出ると、外の空気が思ったよりも明るかった。

 拍手や話し声が重なって校庭に広がる。さっきまで整然としていた列はほどけ、皆がそれぞれの方向へ散っていった。


 校庭にはすでにいくつもの輪ができている。記念撮影のために並ぶ女子たち、先生に声をかける保護者、名残惜しそうに立ち止まる生徒たち。春を待つ木々の枝が風に揺れる。


 レンは証書を胸に抱えたまま、きょろきょろと周囲を見回している。

 さっきまでの緊張が嘘のように、動きは少し落ち着いたものだ。女子が近づいては言葉を探し、短い会話を交わしては離れていく。


 少し離れたところで、母さんがコートを手に立っている。

 人の流れを避けるようにしながら、こちらを見つけると歩み寄ってきた。


「終わったわね、卒業おめでとう」

「ありがとう母さん」

「お祝いに写真撮りましょ。あっ! 静香さーん!」

「沙織さん」

「ハヤト」


 レンがこちらに気づいて、少し早足になる。

 今はもう手と足が揃うことはない。ただ、証書を抱える腕に、まだ力が入っているのがわかる。


「ハヤトさん卒業、おめでとう」


 声をかけてきたのは、隣の女性だった。

 蓮の母、静香。派手さはないが、清潔感のある装いで、表情は穏やかだ。たれ目の美人で、女性へのボディタッチが喜ばれることを教えてくれた人だった。そのうちパートナーにしたいと思っている。


「ありがとう。レンも、お疲れ」


 そう返すと、レンは照れたように視線を逸らし、耳のあたりを掻いた。


「途中、すごく緊張してたわね」


 母さんの言葉に、蓮は小さくうなずく。


「……歩き方、変になっちゃった」


 その問いに、静香さんは一瞬考えてから、やさしく首を振った。


「ちゃんと前を向いてたわ。それで十分よ」


 それ聞いて、レンの肩が少し下がる。

 校庭の喧騒の中で、三人の周りだけ、時間がゆっくり流れているようだった。

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