第4話 バレンタイン

 今日は二月十四日。

 そう。

 教室に足を踏み入れた瞬間、空気が変わったのがわかった。


 視線が、はっきりと俺に集まっている。昨日までと同じ教室、同じ机、同じ黒板なのに、そこに流れる気配だけが違う。女子たちの手元には、小さな紙袋や小箱、リボンのついた包み。隠そうとしても隠しきれない緊張が、教室全体を覆っていた。


 俺の机の上には、すでに一つ、控えめな袋が置かれている。誰が置いたのかは分からない。けれど、その「名乗らなさ」が、かえって重く感じられた。俺は何も言わずにそれをランドセルの横に寄せる。その仕草を、何人もの女子が息を詰めて見ているのが、背中越しに伝わってくる。


「……おはよう、ハヤトくん」


 声をかけてきたのは、普段はあまり目立たない女子だった。両手で包みを抱え、視線が定まらない。


「これ……よかったら」


 差し出された瞬間、指先がわずかに震えている。俺は包みを受け取り、軽く頷く。


「ありがとう」


 それだけで、彼女の肩が少しだけ落ちた。達成したような、でもどこか寂しそうな表情。その変化を見て、胸の奥に小さな波が立つ。


 一時間目、二時間目と授業が進むたびに、机の脇に包みが増えていく。休み時間になると、誰かが勇気を振り絞るように立ち上がり、俺のところへ来る。


「手作りじゃないんだけど……」


「甘いの、苦手だったらごめんね……」


 言葉は違っても、向けられる視線は同じで、祈るような感じ。俺は一つひとつを受けとる。


 昼休み、教室のざわめきは最高潮だった。遠巻きに様子をうかがう女子、友達に背中を押されて近づいてくる女子。


「ハヤトくん、これ……!」


 声が裏返り、包みを差し出したまま固まる。勇気のいる告白だったのだろうが残念ながら応えることはできない。


「ありがとう」


 その一言で、彼女は泣きそうな笑顔を浮かべて席に戻っていった。周囲から小さな拍手のような空気が生まれ、すぐに次の誰かが動く。


 放課後、机の横には紙袋がまとめて置かれていた。俺はそれぞれのチョコを持ってきた袋に詰めていく


 レンが近づいてきて、小さく息を吐く。


「……すごい日だね」

「そうだな、そっちも大量か?」

「うんこっちも大量だね、筋トレの効果出てるってことなのかな?」

「そうかもな」


 まぁ元からモテてはいたと思うけどな。


「まぁ一つあたりのチョコのサイズや量が少ないのが救いだな」


 この世界、男子がチョコをもらうのは当たり前なので、基本沢山入ってるものなどはNGで、量も少しにするというマナーがある。まぁそれでもかなりの量になってしまう。


「じゃあそろそろ帰ろうか」

「うん」



 ルネットの通知音が鳴ったのは、外が少し暗くなり始めた頃だった。


 遥香

『今、仕事終わったよ。今日は……その、渡したいものがあって』


 短い文なのに、画面越しでも彼女が言葉を選んでいるのが伝わってくる。

 すっかり日も落ちたころ、俺は駅近くの公園にいた。

 昼間のざわめきが嘘みたいに静かで、ベンチの木材は冷たく、空気は澄んでいる。

 足音が近づき、コートの裾が揺れる。


「お待たせ」


 水瀬遥香さんは、少し疲れた様子だったけれど、表情は穏やかだった。仕事終わりなのだろう、肩の力が抜けた感じがする。


「寒くない?」


 そう声をかけられて、俺は首を振る。


「大丈夫」


 短い会話の後、彼女は鞄から小さな箱を取り出した。派手さのない、落ち着いた色合い。


「実は受け取ってほしいものがあって」


 声は静かで、押しつけがましさはない。


 俺は箱を受け取る。軽いけれど、想いはしっかり伝わってくる。


「ありがとう、嬉しいよ」


 その言葉を返すと、遥香さんは小さく頷いた。安心したような、納得したような表情だった。


 少し間を置いて、今度は俺が用意していた包みを差し出す。


「俺からも」


「本当!? ありがとう!」


 大いに喜んでくれたようだった。包みを大切そうに持つ仕草を見て、今日ここに来て、心からよかったと思う。


 並んで公園を出る。会話は仕事のことや、最近寒くなったね、という他愛のないものばかりだ。けれど、互いに無理をしない距離感が心地よかった。


 冬の夜道を二人で歩いていた。



 家に帰ると母さんはすでに帰っていた。


「ただいま母さん」

「お帰りハヤト、手を洗ってきなさい、夕飯もうすぐ出来るわ」


 夕食が終わると、母はキッチンに立ったまま背中越しに声をかけてきた。


「ハヤト、食後にデザート出すけど、まだお腹大丈夫?」


「うん、平気」


 そう答えると、冷蔵庫の扉が開く音がして、ガラスの器が取り出される。

 テーブルに置かれたのは、小さなチョコレートのデザートだった。濃い色のムースに、控えめに添えられたフルーツ。派手さはないけれど、丁寧に作られているのがわかる。


「今日のは、ちょっと特別よ」


 母はそう言って、椅子に腰を下ろす。


「撮影で使った差し入れのチョコが余ってたの。舞台の合間に食べるには甘すぎるから、家用に作り直したわ」


 スプーンを入れると、なめらかに沈んでいく。口に運ぶと、甘さは控えめで、後味がすっと引いた。


「おいしい」


 その一言に、母はほっとしたように笑う。


「よかった。甘すぎると疲れるでしょ。筋トレもしてるみたいだし」


 そう言いながら、自分の分にも少しだけ手をつける。食べる量は少ないが、味を確かめるようにゆっくりだ。


「こういうのってね」


 母さんはスプーンを置いて続ける。


「誰かと一緒に食べることで意味があることがあるわ」


「確かにね」


「ハヤトと食べるから、特別な時間になったわね」


 嬉しいことを言ってくれる。お礼もチョコとは別でしっかり送らないとな。


「ハヤト、愛してるわ」

「俺も愛してるよ」


 そう言って、少しだけ誇らしそうに胸を張る。


「ごちそうさま」


 その言葉に、母さんは満足そうに頷いた。


「はい、お粗末さまでした」


 特別なのは、味や材料だけじゃない。

 家族として同じ時間に、同じものを食べる──それだけで十分だった。


 母さんがソファに腰を下ろし、台本を膝に置いたのを見てから、テーブルの上に小さな箱をそっと置いた。


「それ、母さんに」


 沙織は一瞬、台本から視線を上げて箱を見る。すぐには手を伸ばさず、少しだけ間を置いた。


「……なに? ハヤトもチョコレートくれるの?」


「母さんも僕のパートナーだからね」


 そう言うと、沙織は小さく笑って、ようやく箱を手に取った。


「恋人用、ね」


 包みの重さを確かめるように両手で持ち、指先で角を整える。その仕草は、撮影現場で見せるどんな所作よりも、ずっと素のものだった。


「こういうの、もらう立場になると落ち着かないわ」


「嫌だった?」


「いいえ。……むしろ、嬉しい」


 そう答えてから、箱をすぐには開けず、テーブルの端に置く。


「仕事をしてるとね、どうしても与える側でいる時間が長くなるの。でも家では、こうやって受け取れるのがいいのよ」


 一度こちらを見て、やわらかく目を細める。


「ありがとう、ハヤト」


 それだけで会話は終わり、部屋には静かな時間が戻る。

 チョコはまだ包まれたまま、それを大事そうに掻き抱く


「大事に食べるわね」


 母さんの目から涙がこぼれる


「ほら母さん泣かないで」


 俺はポケットに入りっぱなしになったハンカチで母の涙をぬぐう。

 瞳を見ていると愛おしくなって、どちらからともなくキスをする。

 そのキスはとても甘いものだった。

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