卵を一つの籠に入れるな
香月 陽香
卵を一つの籠に入れるな
「卵を一つの籠に入れるな」
鷺沢が言い切ると、会場の拍手が一段大きくなった。
ビジネスホテルの宴会場。蛍光灯の白さに、安いスーツの肩が一斉に光る。演台の横には、籐の籠——中身は、飾りのような白い卵がいくつも。
「……本当に安心なんでしょうか?」
手が上がる。
「ええ。安心です」
鷺沢は笑って頷く。
安心という言葉は、喉の奥で砂糖みたいに溶ける。続けて、わざと難しい単語を混ぜる。ネガティブ・コリレーション。分散投資。意味が伝わる必要はない。"伝わった気"だけが要る。
スクリーンには複雑な矢印のスキーム図。群衆は熱にうなされるように頷き、ペン先が一斉に走った。
セミナーが終わると、鷺沢は控室でヒールを脱いだ。
窓の外は夕暮れ。郭公が静かにドアを開け、グラスを二つ持って入ってきた。
「お疲れ様です。今日も完璧でしたね」
「あなたのおかげよ。絶妙なタイミングだった」
鷺沢はグラスを受け取った。郭公は半年前に拾った。飲み屋で隣り合わせた女が、借金で首が回らなくなっていると聞いて、「働き口がある」と声をかけた。以来、彼女は鷺沢のサクラだ。
優秀なサクラだった。空気を読み、場を温め、余計なことは言わない。
「そういえば」
郭公がグラスを傾けながら言った。
「信頼できる口座屋を知ってるんですけど、紹介しましょうか」
「口座屋?」
「ええ。別名義の口座、いくつか持っておいた方が安全じゃないですか。分散、でしょ?」
郭公は悪戯っぽく笑った。
帰宅後、鷺沢は台所に立った。
冷蔵庫から卵を取り出し、フライパンに油を引く。じゅう、と白身が広がる音。
一日の終わりに卵焼きを作る。それが鷺沢のルーティンだった。甘い出汁の香りが、今日の仕事の疲れを溶かしていく。
鷺沢は鼻歌を歌いながら、卵焼きをくるりと巻いた。
翌週、郭公に紹介された口座屋と会った。
待ち合わせは駅前のファミレス。
「三口座セットで十二万。名義は全部別です」
男はメニュー表の下にクリアファイルを滑らせた。中には通帳のコピーが三枚。
鶴田。千鳥。鷹野。
確かに、別々の名義だ。
「じゃあ、お願い」
「毎度あり。何かあったら郭公さん経由で連絡ください」
男は封筒を受け取ると、するりと席を立った。
鷺沢はクリアファイルを鞄にしまった。三つの籠。これで、さらに分散できる。
「分散が大事ですからね」
郭公の言葉を思い出して、鷺沢は小さく笑った。
——卵は、決して一つの籠に入れない。
鶴田名義に五百万。千鳥名義に三百万。鷹野名義に二百万。
元からある鷺沢名義には、運転資金だけを残す。
ATMの画面を見ながら、鷺沢は満足げに頷いた。
別々の名義。別々の籠。これで万全だ。
——私の卵は、分散されている。
すべてが順調だった。セミナーは毎回満員。郭公のサクラ技術も上がり、成約率は右肩上がり。
口座の残高も増え続けていた。鶴田、千鳥、鷹野——三つの籠が、着実に膨らんでいく。
安い居酒屋の個室。焼き鳥の煙が天井に漂う中、郭公がビールを掲げた。
「三ヶ月で二千万。すごいですね、鷺沢さん」
「あなたのおかげよ」
鷺沢もグラスを掲げた。琥珀色の液体が、照明を反射して光る。
「最初に声かけてもらった時は、正直怪しいと思いました」
「でしょうね」
「でも今は感謝してます。借金も返せたし、こんな面白い仕事、他にない」
郭公は笑った。屈託のない、明るい笑顔。
鷺沢も笑った。この女を拾ったのは正解だった。
帰宅後、台所で卵焼きを作った。
鼻歌を歌いながら、フライパンを揺らす。甘い香りが部屋に広がる。
スマートフォンを確認する。メッセージが一件。
『しばらく身を隠します』
鷺沢は眉をひそめた。
返信を打つ。既読がつかない。
電話をかける。コール音が虚しく響き、留守電に切り替わる。
もう一度。同じだ。
三度目。
『おかけになった電話番号は、現在使われておりません』
血の気が引いた。
鷺沢は震える手で三つの口座にログインした。
鶴田——残高ゼロ。
千鳥——残高ゼロ。
鷹野——残高ゼロ。
画面を見つめる目が、焦点を失った。
すべて、消えている。
——どういうことだ。
別々の名義。別々の籠。なのに、なぜ同時に空になる?
パスワードは誰にも教えていない。通帳は鷺沢が持っている。なのに——
答えは、一つしかなかった。
鷺沢は口座の登録住所を確認した。
鶴田。千鳥。鷹野。
——全部、同じ住所だった。
口座屋の名刺を引っ張り出す。電話番号。
その番号を、鷺沢は知っていた。
郭公の番号だ。
『何かあったら郭公さん経由で連絡ください』
あの言葉が、今になって喉に刺さる。
経由も何も、最初から同一人物だったのだ。
鶴田、千鳥、鷹野——全部、郭公が捨ててきた姓だった。
三つの籠だと思っていた。
でも、巣は最初から一つだけだった。
——托卵。
私は、郭公の巣に金を産み付けていたのだ。
「分散」のつもりで。
「卵を一つの籠に入れるな」
自分が説いていた言葉が、喉に刺さった。
分散したつもりだった。籠を増やしたつもりだった。
でも、最初から一つの籠だった。
鷺沢は台所に立っていた。
いつものように、冷蔵庫から卵を取り出す。
手が震えている。
握りしめた。
ぐしゃり、と殻が割れた。
ぬるりとした黄身と白身が、指の間から滴り落ちる。
生卵の、生臭い香りが鼻を突いた。
卵を一つの籠に入れるな 香月 陽香 @442fa91f6987
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