空いた席

雪象

それは幸運の顔をしてやって来る

 薄暗かったオフィスに、徐々に太陽の光が差し込む。


 机の上にはコーヒー、カップラーメンのガラ、大して好きでもないハッカのキャンディ。それらは夜の間、眠気と戦った自分の抜け殻。




 ――――明け方五時。


 ブラインドの向こうから朝を告げる日差しが押し入ってくる。深夜のシステムメンテナンスを終えて迎えた静かな朝だった。

 あと数時間で、システムの開放時刻となる。


「八時のピーク帯見たら体制解除にするか」


 向かいの席にいた後輩にそう声をかけた。ノートパソコンに視線を落としながら菓子パンにかぶりついていたそいつは、目だけをこちらに向けて頷いて見せた。


 後輩といえどももう何年も同じシステムの面倒を見てきた、気心知れた相手だ。先輩に話しかけられたからと言って、今更その口は菓子パンを離さなかった。


(あと数時間で帰れる)


 昨晩、日付が変わる頃に窓の外を見た時には雪が降っていた。予報通りだったので驚きはなかったが、この時期、夜間作業するオフィスは快適とは言い難い。


 まず、ごく少人数で行われる夜間作業のために無駄なエアコンを稼働させるわけにはいかない。作業するフロアーの端にある、ビルの管理会社から認可の下りたエアコンだけが動くことを許される。


 だがそこは広いオフィスの一角。少ない台数で室内が温まるわけもなく、自ずと作業場所はエアコンの下に限られる。


 これで解決かと思えば、そうもいかない。


 昼間であれば大勢の人の熱もあるので弱い暖房で十分だ。室内は比較的適温で保たれる。だが、夜は人の熱が足りないオフィスでは室温を弱運転でまかなうことが難しい。エアコンが温風を吐いた先から、室内の大部分を覆う冷気勢がその侵攻を許さない。


 結果やむなく強で動かすも、古いエアコンから吐き出される温風の作り出すとした空気は長時間となると気持ち悪くてコンディションはむしろ下がっていく。つけたり止めたりを何度か繰り返して、ちょうどよい空気は自分で作るしかないのだ。


 出社したときは当然寒かったから、ヒートテックも着込んでいるし、ズボンも冬用に厚手のものを履いてきた。これがまた、そんな室内では暑く感じることもあるから厄介だ。


 そうして越した夜。

 いつもと変わらない、やることは慣れたメンテナンス作業。

 何の問題もなく作業を終えて朝はやってきた。




 ――――午前八時。


 動き出したシステムの稼働状況を確認。


 どの数字も予想の範囲内。

 エラー無し。

 正常に稼働している。


 あとのことは朝に出社してきたメンバーに、作業の実施結果とモニタリングを引き継いでオフィスを後にした。




 ——――午前八時半。


 七階のフロアーを出て降りたエントランスを抜けて、出社する人の波に逆らって出る正面口の自動ドア。


 すっかり雪はやみ、雲ひとつない晴れ渡る空はどこまでも青い。

 そこかしこに昨日の雪の名残りが薄く積もり、太陽の光をその白が反射する。


 外界のその眩しさに思わず目を細めた。

 深く肺に届く新鮮な冷たい空気。

 昨日の夕方からほとんど建物の中にいたせいか、この冷たい空気が逆に心地いい。


 深夜に篭り一仕事を終えた満足感。

 出社人を尻目に、今が仕事終わりで帰宅という優越感。


 そんな気持ちが重なった。

 今や頭の中までこの青空のように澄み切っているかのよう。


 大きく、深呼吸をした。




 ——――午前九時前。


 会社の前に立つバス停で待つこと数分。

 朝の時間帯においては本数も多いバスはすぐにやってきた。


 徐々に近付いてきたバスの車内は立つ人も多く、外から見ても座ることは難しそうだとすぐに分かった。


 空気圧の音を立ててバスのドアが開かれる。

 ドアは前方と後方の二箇所が開かれるため、乗る人と降りる人が衝突することがない。

 列の先頭に並んでいた私は乗り込み、車内の奥へと進んだ。


 老人。

 若い女性。

 小学生。

 スーツの男性。


 平日の朝は多様な層の人がバスを利用する。

 車内はやはり外から見た通りたくさんの人で混雑していた。


(おや?)


 混雑するバスの中、一つだけ空いた一人席が目に入る。


 濃いブルーの生地に、いくつも大きな柄が入った厚手のシート。その席の周りには立つ人もいる。


(このバス停で降りた人が座っていた席かな)


 入れ違えたか。誰も座るそぶりを見せないたった一つ空いたその席を不思議に思うも、これ幸運とそこへ座ることにした。

 この時の私は、完全に気が抜けていたのだ。ただ、幸運だと。


 無事に終えた仕事。

 心地良い爽やかな朝。

 今日がいい日のような気がした。


 だが、今なら思う。




 『なぜ、もっと不思議に思わなかったのだ』


 『なぜ、近くを立つ人に座らないのかと声を掛けなかったのだ』


 なぜ、なぜ…………






 ————午前九時半。


 バスが終点の駅前バス停に到着する。

 昨日の夜間作業の反動か、この数十分でうとうとしていたらしい。ぞくぞくと人が降りていく気配で目を覚ました。


 完全に降りるタイミングを逸し出遅れてしまった私は、おとなしく降りる順番を待ち、最後の乗客になった時に席を立ち上がった。


(——ん?)


 立ち上がった瞬間、私の太ももに冷たいものが触れた。


 その小さな異常に私は動きを止めた。そして、ほとんど反射的に意味もなく降りる間際の車内をキョロキョロと見回す。


 私以外に乗客のいないバス車内。数秒の間を挟んでミラー越しに運転手を目に留め、訝しむような表情と目が合う。


(早く降りなくては)


 そう急いでバスの乗降口の段差を一歩降りた。

 だが、に気付いたのはバスから完全に降りた時だった。




 突然、頭を殴られたような衝撃が走った。

 その違和感への理解は、頭をぎったサイアクの




 素早く後ろを振り返る。

 ようやく降りたかと閉じられるバスのドア。

 はめ込みガラスのその向こうに見えた、先ほどまで座っていた座席。


 もちろん誰も座っていない。今は。


 私は大きく目を見開いた。

 ゆっくりと出発するバス。

 心臓が激しく動悸する。


「まさか……まさかまさかまさか……!!」


 私は震える手で、自分のズボンに触れ、何度も確認するように尻を太ももを触った。



 厚手のズボンが吸い込んだ、明らかな何かの



 念のためコートをまくし上げてズボンの前部を確認する。

 シミはない。

 もとよりその可能性は考えていなかったが、間違いはない。


 眠気などとうに覚めた。

 頭が導き出したその答えを、同じ頭が拒否する。

 呆然と、尻に手を当てたままその場に立ち尽くした。


 遠い昔、同じクラスで初恋だった女の子が学校のプールでしたことを又聞きして、とたんに冷めてしまったことを思い出した。

 人は選択を迫られた時、自分のした行いがよりバレない方法があると分かるとその手を選ぶクセがある。それに罪の意識があれば尚更。





 間違いない。

 これはあの座席から吸い上げられたもの。






 あの座席でバレないように残された置き土産は、今や私のもとにある。


 バス停で己の尻をまさぐり硬直するスーツの男。

 駅から出てきた人々が訝しげに視線を投げては足早に通り過ぎていく。


 座席の近くで談笑していた小学生のグループ。

 目の前に立っていたコーヒーのカップを持った若い女性。

 別の席に座っていた背中の曲がったご老人。




 どいつだ?




 動揺のあまり、車内で見かけた冤罪かもしれない彼らの姿が脳裏に甦る。


 いや、もしかするとあの時あの場にはいなかったかもしれない。もはやあのバスに乗っていたすべての人間が私を嵌めようと悪意を持っていたのではとすら思える。


 厚手のズボンを自分の尻から太ももにかけてなぞり肌に押し付ける。しっとりとした感触、外気と同じ冷たいそれを、短い仮眠でほんの少し体温の上がった肌が受け止めた。


 問題はまだある。




 私は今からで電車に乗るのか?




 なればこそ、確認しなければならない。

 これは決して好奇心などではない。


 いま背負ったこの謂れなきごう

 これから自分がどれだけ周囲に無実の恥を晒すのか。

 見た目では分からぬはどれほど気付かれるのか。


 その予測を正しく捉えるための確認作業。


 ゆっくりと太ももの付け根あたりに手を添え、ズボンの生地を指先でぎゅっとつまむ。

 目の前に持ち上げた手の、うっすらと湿り気を帯びた指先。


 私はその指を、おそるおそる自分の鼻に近づけた。




 大きく、大きく息を吸い込み、それを確かめた――――

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空いた席 雪象 @yuki-zo

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