白衣のライバル、凍てつく忠告
こめかみを金槌で叩かれるような鈍痛が、ここ数日、湊の思考を奪っていた。
バイトと執筆の無理が祟っているのは明白だ。手元にあるファンレターの温もりだけを杖にして、湊は縋るようにかつての入院先へと足を運んだ。
「……一ノ瀬湊さん、中へどうぞ」
診察室のドアを開けると、そこには若く、鋭い眼差しをした医師が座っていた。
カルテを見るその指先には、ペンだこがある。湊は、その横顔に既視感を覚えた。いや、忘れるはずがない。数年前、同じ賞の最終選考で競い合い、湊が倒れた後に姿を消した、あの――。
「久しぶりだな。……いや、今は『先生』と呼ぶべきか。一ノ瀬」
医師はカルテから目を離し、湊を真っ直ぐに見据えた。
湊は息を呑む。
「……九条(くじょう)? どうして、お前がここに……」
九条。かつて湊と並び称され、将来を嘱望されていた天才作家だ。
「俺はあの日、お前が倒れるのを見て筆を置いた。物語を作る喜びより、お前のような才能が壊れていく恐怖が勝ったからだ。……今は、この通り医者をやっている」
九条はデスクの引き出しから、見覚えのある白い封筒を取り出した。湊がポストで受け取った、あのファンレターと同じ紙質だ。
「あの手紙、お前が書いたのか」
湊の問いに、九条は否定しなかった。
「お前がまた書き始めたと知って、黙っていられなかった。だが、勘違いするな」
九条の声は、冬の冷気のように鋭くなった。彼は湊の診断結果をデスクに叩きつける。
「今のお前の数値は最悪だ。頭痛が止まらないのは、脳が限界だと悲鳴を上げている証拠だぞ。今のまま書き続けるなら、次はない。アニメ化だ、メディアミックスだと吠えるのは勝手だが、お前がやろうとしているのは『創作』じゃない。『自殺』だ」
「それでも、俺にはこれしかないんだ!」
湊は声を荒らげ、震える手でデスクを叩いた。
「お前は降りたからいいさ。でも、俺はあの場所(アニメーション)に、自分の言葉が光になるあの瞬間に辿り着くまでは、死んでも死にきれないんだ!」
「死んだら、その先(メディアミックス)は見られないんだぞ、一ノ瀬!」
九条もまた、白衣の下の拳を固く握りしめていた。
「かつてのライバルとして言わせてもらう。お前の作品は、命を捨てて書くほど価値があるか? ……もし、本気で最後までやり遂げたいなら、今すぐその無茶なバイトをやめろ。そして、医者の管理下で『生きるための執筆』を選べ」
九条は処方箋を差し出した。それは、単なる痛み止めではない。
「これは、俺からの最後の警告だ。次に倒れたら、俺がお前のペンを折ってやる。……それが、お前に夢を見せられた読者としての、俺の誠意だ」
診察室を出た湊の手には、震えるほどの重みを持った処方箋と、九条の痛いほどの覚悟が残っていた。
メディアミックスという頂への道は、かつての友さえも「敵」に回さねばならない、あまりに孤独な登攀(とうはん)だった。
九条の管理下で、湊の「最後の執筆」が始まった。
九条は医師として、湊のバイタルを厳格にモニタリングし、一日の執筆時間を制限した。代わりに、湊がバイトに費やしていた時間は、九条が私財を投じて確保した「執筆に専念するための静養」へと変わった。
「これは投資じゃない。お前の最後を見届けるための、特等席の代金だ」
九条はそううそぶいたが、彼が深夜まで湊の過去作を読み込み、構成の矛盾を指摘し、医学的な知見から物語に圧倒的なリアリティを付加してくれていることを、湊は知っていた。
しかし、病魔は待ってくれない。
勝負作の最終章に差し掛かった頃、湊の視力は急激に低下し、キーボードを叩く指先は感覚を失い始めていた。
「……九条、あと、少しなんだ。あと数シーンで、僕がずっと見たかった景色に届くんだ……」
病室のベッドの上、霞む視界で必死に画面を見つめる湊の姿は、さながら燃え尽きる直前の焔のようだった。
その、あまりにも美しく、あまりにも無謀な執念に、九条の中で眠っていた「表現者」としての血が、ついに沸騰した。
「一ノ瀬。……いや、湊。一つ、提案がある」
九条は白衣を脱ぎ捨て、湊の枕元に椅子を引き寄せた。その手には、かつて彼が作家時代に使っていた古い万年筆が握られていた。
「お前の頭の中にあるプロット、その最後のピースを俺に預けろ。お前が口述し、俺が綴る。お前の魂と、俺の技術。二人の人間が、一つの命となってこの物語を完結させるんだ」
湊は驚きに目を見開いた。ライバルとして競い合った九条が、自分の「影」となって筆を執るという提案。それは、プライドを捨てた、究極の救済だった。
「お前一人じゃ、メディアミックスのその先まで持たない。だが、俺たちの共作(タッグ)なら、この物語を世界に叩きつけられる。……アニメのスタッフロールに、俺とお前の名前を並べてやろうじゃないか」
湊は震える手で九条の手を握り返した。
「……頼む、九条。僕の夢を、君に託させてくれ」
そこからは、狂気にも似た共同作業だった。
湊が絞り出す一言一言を、九条が命を吹き込むように紙に刻んでいく。
数ヶ月後。
ついに書き上げられたその原稿のタイトルは、『Dream of Life』。
それは、一人の男が死を越えて、もう一人の男の指を借りて書き上げた、文字通りの「生存証明」だった。
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