#二

その日の朝、端末は妙に親切だった。


起床アラームが鳴る前に、カーテンが開いた。


朝食の配送時刻が五分早まり、熱々のコーヒーが届いた。なんて出だしのよい1日になのだろう。


出勤ルートの提案も、いつもより詳細だった。


――推奨経路:第七幹線→環状路→郊外高架線


――所要時間:23分(通常比-12分)


信号はすべて青で、移動は驚くほど早い。


「今日は仕事が捗りそうだな」


独り言を言った瞬間、端末が短く振動した。


――本日の作業効率:最適


いつもなら気にも留めない通知だった。


だが、今思えば、あれが最初の違和感だったのかもしれない。


車窓から見える街並みは、いつもより整然としていた。


歩行者は一定のリズムで歩き、車は完璧な車間距離を保っている。


ドローンが低空を巡回し、視線誘導パネルが穏やかに点滅している。


すべてが、あまりにも滑らかに動いていた。


信号が青に変わるタイミングも完璧だった。まるで、私の到着を予測しているかのように。交差点を曲がるたび、前方の車両は適切な距離を保って移動していく。渋滞もない。工事もない。歩行者の信号無視もない。


完璧すぎる朝だった。


やがて現場である郊外の高架下に着いた。


視界に入ったのはガードレールに追突した事故車が一台。


規制線はまだ張られていない。


周囲に人影はなく、ドローンの姿もない。


私は一瞬、嫌な気配に立ち止まった。もう一度端末を確認する。


――事故(未確定)


――処理内容:現場保全


私は思わずウッと息を呑んだ。


本来、清掃員が来る現場ではない。


未確定事象には、観測ドローンが派遣される。


私たちが呼ばれるのは、すべてが終わった後だ。


だが、稀にシステムエラーで未確定の現場に派遣される場合があると噂で聞いた事がある。


「現場保全」という名目で、未確定事象の周辺に清掃員が配置されるのだ。


観測員不足。


理由はそれだけだと、噂好きな上司は言った。


「決して見るな。距離を保て。目を逸らせ。お前の仕事は観測じゃない。」


その言葉を反芻しながら、私は事故車に近づかないようにした。


五メートル。


研修で教わった安全距離だ。


未確定の事象は、見てはいけない。


それが研修で最初に叩き込まれた清掃員の掟であった。


「見る」という行為は、ただの視覚情報の受容ではない。


この世界では、見ることはその事象を確定させることだ。


生死の境界にある者を見れば、境界は崩れる。


波は収束し、状態は固定される。


それを行えるのは、訓練を受けた観測員だけだ。


私は、車の側面だけを見た。


破損状況は中程度。


フロントガラスにひび。


エアバッグは展開済み。


生存可能性はありそうだ。


しかし、それ以上は見てはいけない。


観測ドローンを待つべきだ。あと何分だろうか。五分? 十分? 端末には到着予定時刻が表示されていない。それも、妙だった。いつもなら、観測員の到着時刻は必ず表示される。


そのとき、運転席の男が微かに動いた。


生きている。


私は反射的に視線を逸らそうとした。


だが、男の目がこちらを捉えた。


助けを求めるような、それでいて諦めたような目だった。


そして――


息が止まり、体が弛緩し、


生命が抜け落ちるのを――私は見た。


見てしまった。


確定させてしまった。


端末が、即座に鳴った。


――警告


――未確定死亡事象が観測されました


――観測者:清掃員第三一二号


――観測時刻:09:47:32


――因果確定を検知


――通報済み


ドローンの羽音がどこからともなく近づく。


三機、四機、五機。


上空を旋回し、私を取り囲む。


逃げようとは思わなかった。


逃げ道など最初からこの世界には存在していないことを知っているからだ。

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