#六

私は席を立った。


観測室の扉は、開かなかった。


――規定外行動を検知


スピーカーから声がした。


「観測補助員 第四七号。落ち着いてください」


「これはエラーだ」


「エラーはすでに考慮されています」


「なら、なぜ私が――」


「あなたは適切です」


声は淡々としていた。


「あなたは社会適応度が高く、現実認識が安定している」


「それと、これが何の関係がある」


「大いにあります」


端末に新しい情報が表示される。


――補足説明


観測者が不足しています


私は理解しかけていた。


社会は安定しすぎている。


犯罪も事故も減り、未来は均質化した。


だが、未来が減れば、観測対象も減る。


観測されない未来は、不安定だ。


「待ってくれ」私は言った。「つまり、観測対象が減ったから、観測者自身を対象にするということか?」


「正確です」


「だが、それは矛盾している。観測者が観測対象になれば、誰が観測するんだ?」


「上位観測者です」


「上位?」


「観測者を観測する部門が存在します。さらにその上位も。階層構造になっています」


私は頭を抱えた。


「それは……無限後退じゃないか。最後は誰が観測するんだ?」


「最終的には、システム自身が自己観測します」


「システムが自分を観測?」


「そうです。完璧な円環です。始まりも終わりもない。すべてが観測され、すべてが確定する」


私は笑いそうになった。だが笑えなかった。


「あなたは観測者であり」


声が続ける。


「同時に、観測可能な唯一の揺らぎです」


「つまり……」


「あなたが見なければ、確定できません」


椅子が微かに振動した。


いつの間にか、私の体は固定されている。


ヘッドギアが降りてくる。


「待て」私は叫んだ。「私はまだ承認していない」


「承認は不要です」声は言った。「あなたの承認も、すでに予測されています」


「予測?」


「はい。あなたは観測を拒否しようとする。だが最終的には、承認します」


「なぜそう言える?」


「なぜなら」声は静かに答えた。「あなたは良い市民だからです」


その言葉が、胸に突き刺さった。


良い市民。


不安を感じない。


疑問を持たない。


社会のために尽くす。


私は、そうであろうとしてきた。


そして今、その「良さ」が、私を縛っている。


――自己観測プロトコル:開始


映像が流れ込む。


私は、私を見る。


その目が、怯えていることに気づく。


だが同時に、奇妙な安心もあった。


私は役に立つ。


社会のために。


映像の中の私は、もう抵抗していない。


ただ座り、画面を見つめている。


何かを諦めたような、穏やかな表情で。


そして映像の中の私は、ゆっくりと手を伸ばし――


端末が最後の確認を促す。


――観測を実行しますか?


私の指が、震えていた。


承認ボタンの上で、空中に浮いている。


押すべきか?


押さなければ、何が起こる?


だが私は知っていた。


押さなくても、結果は同じだ。


なぜなら、私が押すことも、押さないことも、すでに予測されているから。


私の選択は、存在しない。


あるのは、選択という幻だけだ。


私は承認ボタンを押した。


通知音。


――確定

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る