Once Upon A Dream

片喰 一歌

サイダーの亡霊


「…………ねえ、爽汰? ……爽汰さーん? ねえってば! ……『名前を呼ばれたら返事しましょう〜!』って、幼稚園で習ったと思うんだけどなあ……」


 女は今日も男の名を呼ぶ。最初は小さく、徐々に大きく。

 女が愛しい男の名前を叫んでも、喉は渇かない。声が掠れることもない。


「……まあ、聞こえてなかったら、返事も出来ない……か」


 ――――落胆の声は届かない。

 女の声は、この惑星ほしを覆う大いなる気体を揺らすことはかなわない。

 女には、落とす肩もない。

 女はすでに肉体を失い、魂や念と呼ばれる残滓となって現世にとどまっているだけの存在だ。

 彼岸の者たる彼女の、此岸に於ける名は――――。



 ++++++++++

 


 ここは、古ぼけたアパートの一室。

 物理的・環境的瑕疵のひとつもありそうだが、築年数相応に劣化しつつも雨漏り等に悩まされる心配もなく、周辺地域の治安も比較的良いほうで、どの時間帯に出歩いても可愛い犬を連れた人やジョギングに励む人に出会える、ただただボロくただただ安いだけの、金のない人間に優しい無害なアパートだ。

 

 追加でもうひとつ特徴を挙げるなら、とある国立大学を擁する町に存在しており、近辺には学生が多く住んでいる――ということくらい。

 そんな物件は都会にはありふれているだろうから、特定に怯えることもないだろう。


 昨今は空前の事故物件ブームの影響で、事故物件であることを条件に物件探しをしている猛者も見受けられるが、そのアパートは公表されていない心理的瑕疵のある物件の疑いこそあれ、確定情報はおろか噂もないせいか、事故物件コレクターにも人気がなく、居住者は三百六十五日いつ出会しても片手にサイダーを携行している、若い男性一名のみだった。


 現在、オンボロアパート唯一の住人であるその男性は、学生時代より居住を開始し、社会人となってからも契約を更新している。


 近所の国立大の学生であった頃はともかく、勤務先へ行くには電車を弐度も三度も乗り換えなければならないというのに、なぜ彼は長い通勤に耐えてまでこの部屋を借り続けるのか。

 

 彼をこの部屋に縛り付けているものは、原因は、元凶は――一人の女性だった。

 彼女は、男性の昔馴染みであった。

 幼少期から親交を持ち、高校時代に思いを通わせた二人は、別々の高校を卒業したあとに同じ大学に合格し、共に上京してきた。

 互いの両親にも二人の交際については承知していたが、同棲の許可は当然下りず。

 徒歩数分の距離に位置する別のアパートを借り、互いに部屋を行き来するという生活を送っていた。

 

 しかし、そのまま大学生活を駆け抜け、社会に出るか内定を受け取ったタイミングで同棲を開始する予定だった、どこにでもいる平凡で幸せなカップルは、運命の悪戯によって引き裂かれることになる。

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