第9話:考えなくなったこと

最近、朝に考えることが減った。


目が覚めて、

カーテンを少し開けて、

天気を確認する。

それだけで、支度を始める。

以前は、もう少し先のことを考えていた気がするが、

何を考えていたのかは思い出せない。


コーヒーを淹れる。

香りが立つのを待って、

そのまま飲む。

温度を確かめる動作は、

いつの間にか省かれていた。


駅までの道は、

いつも通りだった。

どちらを選んだのか、

あとから振り返らないと分からない。

それでも、間違った感じはしない。


ホームに着くと、

彼女がいる日と、いない日がある。

今日は、いた。

それだけで、

それ以上の確認は必要なかった。


電車を待つ間、

私たちは並んで立つ。

会話があってもなくても、

時間の流れ方は変わらない。


車内で、

彼女は窓の外を見る。

私は、流れる広告を眺める。

視線が交差しないことに、

意味を感じなくなっていた。


仕事中、

彼女のことを思い出す瞬間はある。

だが、それは特別な割り込みではない。

ふと浮かんで、

そのまま消える。

仕事の邪魔にはならない。


夕方、

改札を抜ける。


彼女は、

もうそこにいる。

待っていたのかどうかは、

分からない。

分からないままで、

並んで歩き出す。


会話は短い。

仕事の話。

明日の予定。

どれも、決定を急ぐ内容ではない。


分かれ道に着く。


立ち止まらない。

どちらへ行くかを、

言葉にしない。

歩き出した方向に、

自然に揃う。


遠回りになっていることに、

途中で気づく。

それでも、

歩調は変えない。


靴底が地面に触れる音が、

二人分、重なる。

その音を数えることもしない。


駅が近づく。


人の流れが増え、

会話が途切れる。

それでも、

空白を埋めようとは思わない。


改札の前で、

彼女が軽く手を振る。


「また」


「また」


それで終わる。


家に帰ってから、

私は今日の一日を思い返す。

何かを判断した記憶はない。

選んだ感覚も、

決めた実感もない。


それでも、

生活は滞りなく進んでいる。


考えなくなったことが、

増えただけだった。


そして、

それを問題だと感じない自分が、

そこにいる。

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名前をつけなかった感情について アイル・シュトラウス @AileStrauss

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