第5話:彼女が居なかった日
その日は、少し早く仕事が終わった。
理由は特にない。
予定が前倒しになっただけで、
達成感のようなものも残っていない。
早く終わった、という事実だけがあった。
改札を抜ける。
立ち止まる必要はなかった。
いつもの位置に視線を向ける癖だけが残っていて、
そこに誰もいないことを確認してから、歩き出す。
並ばない日は、珍しくない。
そう思い直す。
それで説明は足りているはずだった。
分岐点に着く。
最短の道と、遠回り。
信号の位置も、街灯の色も変わらない。
道路標識の角度も、舗道の継ぎ目も、
前に立ったときと同じだった。
彼女はいない。
立ち止まる理由はなかったが、
進む理由もすぐには見つからなかった。
ほんの一拍。
足を止めるほどでもない時間が流れる。
最短の道を選ぶ。
それは、自然な判断だった。
急いでいるわけでもないし、
何かを取り戻そうとしているわけでもない。
ただ、そうした。
歩調は、少しだけ速い。
意識して変えたわけではない。
人通りが増えるにつれて、
足音が他の音に紛れていく。
いつもより早く、駅に着く。
ホームには、人が多かった。
電車は、ちょうど入ってくるところだった。
迷う余地はなく、
そのまま乗り込む。
車内で、窓の外を見る。
反射した自分の顔は、
何かを考えているようにも、
何も考えていないようにも見えた。
判断できるほど、はっきりしていない。
次の駅で、何人かが降りる。
空いたスペースに、人が入る。
その繰り返し。
以前なら、
こういう時間に、
どうでもいい話をしていた。
今日は、しない。
する相手がいない、というだけだ。
降りる駅に着く。
改札を出て、
いつもの道を歩く。
ここでも、分岐がある。
細い道と、広い道。
広いほうを選ぶ。
理由は、街灯が多いからだ。
それ以上の意味はない。
意味を足す必要も感じなかった。
家に着いて、
靴を脱ぐ。
室内は、静かだった。
電気をつけ、
荷物を置く。
いつも通りの動作。
コップに水を注ぐ。
音が、思ったより大きく聞こえる。
台所の照明が、少し白い。
時計を見る。
いつもより、少し早い。
連絡を確認する。
新しい通知はない。
それを、問題だとは思わなかった。
あるはずだ、という前提が、
そもそも存在していない。
ベランダに出る。
夜の空気は冷たく、
風は弱い。
遠くで、電車の音がする。
それが、しばらくして消える。
分岐点は、
今日もそこにあった。
彼女がいなくても、
道は消えない。
選択肢も減らない。
ただ、
選んだ結果の手触りが、
少し違った。
それを、どう扱うかは、
まだ決めていない。
決める必要も、
今は感じていなかった。
明日も、同じ時間に帰る。
彼女がいるかどうかは、
そのときに分かる。
それで十分だった。
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