ある食人鬼の物語

間川 レイ

第1話

0.

「おい、いたか⁉」


「いません!」


「よく探せ、奴はここに逃げ込んだ!ここで仕留めるんだ!」

そんな野太い怒声が背中を追いかけてくる。


ああ、なんとしつこい奴らだ。


「それ」は独りごちる。白い息を必死に吐きながら、石と雪で構成された急な斜面を必死に登る。そして、時折手に持った拳銃を、暗闇の中後方に狙いもつけずに数発撃ち放つ。


これで追撃が鈍るだろうか、「それ」は自分に問う。無理だろうなと頭を軽く振る。連中は本気だった、一人二人死んだところで今度こそ絶対に逃がしはしないとの強い意志が感じられた。今度こそは逃げきれないだろう。


10分ばかり急な山肌を登っていくと、ポツンと一つの山小屋があった。これ幸いと中に飛び込む。中は無人で、暖炉の火は消えていた。だが「それ」にはそれでよかった。「それ」には休息こそが必要だった。


「それ」は水筒に残った最後の水を飲み干すと、自身の体を眺めた。銃創4か所、刺傷八か所。そのすべてが重要な臓器の近くを通っている。これは助からないな、と軽く息を吐く。沢山の人間を殺してきた「それ」だからこそ、そのことがよく分かった。だが、「それ」に恐怖など微塵もなかった。「それ」には迫りくる自分の死が、ひどく他人事のように思えた。


思えば遠くまで来たものだ、と「それ」は自嘲する。


「それ」に名前など与えられなかった。気づいたときにはひとり、スラムの中でゴミを喰いながら育った。多くの少年少女が飢えと寒さで翌朝には事切れるか、粗悪な混ざり物の多いドラッグや新型のドラッグの試し打ちに使われて、生きたまま腐って死んでいった。「それ」は偶々死ななかったからこそ、同じく死に損なった「幸運な」少年少女たちと共に、その地域を根城とするマフィアに拾われた。


そしてそこでアフリカの少年兵も真っ青の戦闘訓練を受けた。人をナイフで殺す訓練、銃で静かに殺す訓練。建物を中身ごと効率よく解体する爆弾の仕掛け方。あるいは痛めつけ方。人間の味わえる最大限の苦痛を与えながら殺さない方法。様々な方法を教わった。反抗するものは容赦なく殺された。あるいは新薬の実験台にされるか、実地訓練の教材にされた。不幸にも顔が良ければ、麻薬漬けにされて商品にされた。あるいは麻薬なしでも商品になるよう調教された。もしくは教官たちの慰みものになるか。彼ら彼女らが苦痛を感じているかはわからなかった。悲鳴が嬌声に、嬌声が沈黙に変わるまで時間は掛からなかったから。


「それ」はそんな世界で13年を生きた。3年生き残れば上出来と言われる世界の中で。その代わり同時期に拾われた子供たちは一人も生きてはいなかった。むしろ、その内の何人かは自らの手で処分していた。ある時は忠誠度の確認として。あるいは単なる粛正役として。はたまた上層部の戯れで。マフィアで長年生き残る「それ」を慕うものが居なかった訳ではない。何なら、実の兄のように兄さんと慕う少女もいた。「それ」の指導もあり、少女は殺しの才能を開花させつつあった。そしてある時戯れとして、上層部から少女を商品に仕込むよう命令された。震える声で、兄さん、私なら大丈夫だからと微笑む少女に何本も新薬を打ち込み、やがて、何をしても嬌声しかあげないようになって。無事に商品に加工して以来。「それ」は笑わなくなった。


あるとき、ある女の抹殺を頼まれた。スラムでの生活で、銃、ナイフの扱いに天性の才能を示していた「それ」にとって、その任は特に難しいものではなかった。


あっさりと女、少女と言って良いほどの年齢の女の頭を撃ち抜くと、ふと何気なくその女の死体を見た。それは脳漿をまき散らして死んでいるが、とても美しい少女だった。それこそ、かつて「それ」を兄さんと呼んで慕った少女のように。


突然、ぐうと、腹が鳴るのを「それ」は自覚した。思えば、ここ最近何も食べていなかった。最後に食べたのは3日前、腐りかけのシチューを食べたぐらいか。堪らなく腹が減っていた。気が狂いそうなほどに。それこそ目の前に横たわる、かつて自身を兄と慕った少女によく似た少女がとてもとても旨そうに見えるまでに。


何を自分は、と頭を振る。目の前にあるのはただの死体だ。それ以上でもそれ以下でもない。スラムのシスターも言っていたではないか。どれだけ飢えても人は食べてはなりません。地獄の炎に焼かれることになりますよと。


だが目がひきつけられてたまらない。口の中に唾がたまる。あれは美味いぞと本能が叫んでいる。こんな感覚になるのは生まれて初めてのことだった。何せ、マフィアやスラムでの食事はごみ同然だ。長生きしたいなら、飯は味わわずに飲み込むことというのが、だれもが冗談交じりに、だが本心から新入りに忠告するほどだ。


そんな世界で育ったこの自分が何かをうまそうと思う日が来るだって?そんなのはただの気の迷いだと笑い飛ばそうとした。だが、それはできなかった。むしろ誰もいない路地裏に、自分のつばを飲み込む音が響くばかりだった。なぜか少女から目を離せない。腹もぐうぐうとなっている。


そして「それ」は何かに導かれるように。震える手で、胸元に固定したナイフホルダーから大ぶりの軍用ナイフを取り出す。きらりと光を反射し輝く刃。その刃はよく研がれており、骨だろうが肉だろうがたやすく切断するだろう。マフィアお抱えの殺し屋御用達のナイフ。大きく頑丈なナイフ。そんな刃をゆっくりと、倒れ伏す少女の左手の肩口にあてた。


ざくんと。我ながら拍子抜けするほど軽い手ごたえとともに切断される左腕。散々人は刺してきたけれど、こうして解体するのは初めてだったなと思いながら、切断した左腕を拾い上げる。それは見た目のわりにずいぶんと軽かった。


拾い上げた左腕をまじまじと眺める。ツンと鼻につく新鮮な血の匂い。それに呼応するようにぐうと腹の音が鳴る。もう我慢などできなかった。大口をあけてかぶりつく。ほとばしる血潮。はじける筋繊維。未知の快感に脳が焼かれる。これが旨味というものか。そこから先はもう無我夢中だった。脳を、眼球を脊髄を太ももを胴体を、余すことなく喰った。「それ」はその日、生まれて初めて旨味という感覚を知った。話に聞く天上の美味とはこういうものかと思った。かつて自身を兄と慕った少女によく似た少女を、まるで獣のように貪った。


それから再び別の女の抹殺を頼まれたとき、特に腹はすいていなかった。


「それ」が空腹のあまり人を喰ったといううわさがクライアントの耳に届き、不気味がったクライアントが餌を十分にやってから出撃させるよう命じたからだ。


だが「それ」にとって、再びあの味を、あの甘露を味わいたいという欲求は、あまりに強烈にすぎた。


その欲求に突き動かされるように、女の腕を切り取り、喰う。やはり、とんでもなく美味かった。だが、あの少女のような天上の美味というには何かが足りなかった。


それから「それ」は、あの美味を再び。その欲求にだけ突き動かされるようになった。


老いも若きも、男も女も殺して食った。果ては胎児まで食った。更に精力的に任務にあたるようになった「それ」。片付けが楽でいいと、半ばせせら笑いながら「それ」の趣味を黙認していたマフィアも、ボスまでもが美味の探求の犠牲者になるに至って、高額の懸賞金をアンダーグラウンドにかけた。警察も連続行方不明の容疑者として連邦全域に指名手配をかけた。


「それ」は昼も夜も追われるようになった。幾たびも窮地を乗り越え、追跡者を返り討ちにし、その肉を食ってきた。柔らかくて美味な肉も、筋張って噛めば噛むほど味の出る肉も、たばこのにおいが染みついて燻製肉のような味のする肉もあった。どれもこれもが至福の味だった。だが、いつもあの少女のの味には程遠かった。いつしか「それ」は、生ある限り自分はあの味を追い求めて生きていくのだろうと、漠然と思っていた。


だが。だが、それもこれまでらしいと、ぬらぬらと濡れる腹部を見ながら苦笑する。痛みはとうになくなっていた。体の寒さも、もう感じない。ただ、たまらなく、無性に腹が減っていた。どこまでもどこまでも腹が減っていた。それこそ、気が狂いそうなほどに。


カバンの中には非常食にマフィアの倉庫から盗んできたカロリーメイトが入っていたが、人生最後の晩餐にそんなものを食べるつもりはなかった。ああ、こんな時あの少女が傍らにいたらなあ、とふと思った。最初に食った少女、あの天上の美味とでもいうべき少女。それから食った少女たちも、天上の美味とまでは言わずとも、たまらなく美味だったと思い出す。思い出すだけで口の中に唾がたまりそうだ。最後にもう一度だけでも、あのような少女が食べてみたいものだと、しみじみと思う。


だがその願いはかないそうにない。神様はなんて無情なんだ。


そんなことを考えていると、バタンと山小屋のドアが勢いよく開け放たれた。びゅうびゅうと外気が吹き込む。吹雪を背景にそこに立っていたのは、一人の50代ぐらいの男。かつて「それ」にスラムでの生き方を教え、スラムで生き延びてからはマフィアにスカウトした男。そして「それ」がボスを喰ってからは、ボスの復仇に執念を燃やす鬼。幾たびも辛酸をなめさせられたその男が、そこに立っていた。


「ああ、あんたですかい」


「それ」はつぶやく。だが、男は眉根に刻まれたしわを深くするばかり。刀傷の刻まれた左目をキュッと細めると、ずんずんと壁にもたれる「それ」に近づく。無言で拳銃を「それ」の頭部に突きつける。テンガロンハットの下の鋭い眼光が、まっすぐに「それ」の両眼を射抜く。男の羽織ったトレンチコートが、バサバサと風にたなびく。


男が、ぽつりとつぶやく。


「お前のことは別に嫌いじゃなかったんだがな」


と。


ああ、自分はここで死ぬのだと。「それ」は完全に理解した。死ぬこと、そのことに恐怖はなかった。ただ、この気の狂いそうな、耐え難い空腹のままあの世に行くのは嫌だった。


どうせ死ぬのなら、せめてこの空腹を紛らわしてから死にたい。


何か空腹を紛らわすものはないかと、「それ」は血走った目で探す。目を凝らし口元をゆがめながら。かの天上の美味をなんて贅沢は言わない。ただ、最後の晩餐にふさわしい何かを。


そして、見つけた。最後の晩餐にふさわしい獲物を。


いるではないか、目の前に。確かに年老いた体は食べにくそうだ。だが、かつて銃の名手として鳴らしたその筋肉質な体は食べ応えがありそうだ。それになにより、所属するマフィアが壊滅してもボスの敵を討たんとするその執念、まさに自分の最期の獲物にふさわしい。


「それ」はうっそりと笑顔を浮かべる。


追い詰められたはずの「それ」が浮かべたそんな表情に、男も怪訝そうな顔をする。


「お前、何を考えてー」


最後まで言いきらせぬうちに、とびかかる「それ」。狙いは首筋。大口を開けてかぶりつく。ぶちぶちと肉のちぎれる感触。


「このっ!!」


弾ける怒声。連続する銃声。そのたびに感じる灼熱の感覚。だが決して咥えこんだ首筋だけは離さない。


そのつもりだった。だが老いたりといえ、かつて剛腕で知られた無傷の男と、体のあちこちに重傷を負った「それ」では勝ち目はなかった。


「ふざけた真似を!」


荒々しく埃の積もった床にたたきつけられる「それ」。


男は息を荒げつつも「それ」からゆっくりと距離をとる。銃口を頭に向けたままゆっくりと。二度と反撃の機会を与えないように。片手は首筋に充てられているものの、流れる血は意外と少ない。それを見て、「それ」はあれでは致命傷には程遠いなとポツリと思う。


微調整される銃口。銃口が正確に「それ」の脳天に向けられる。


今度こそ本当の終わり。逆転の目は、ない。


ひどく静かな声で男が問いかけてくる。


「何か、言い残すことはあるか」


そこからは、やっと仇を討ち果たすことのできることへの興奮は感じられない。


思い残すこと。

それは勿論、ある。

死ぬ前にもう一度、あの少女をもう一度食べたかった。あのどこか懐かしい味をもう一度味わいたかった。


だがそれは、もう叶いそうにない。


だから、「それ」は黙って首を振る。


「そうかよ」


弾ける銃声。ひらめく閃光。感じる激痛。意識が無限の闇に飲み込まれていく。


どこまでも。


どこまでも。


そして意識が無限の闇に完全に飲み込まれる寸前。


「それ」は、無限の暗闇の中で。何者かの笑い声を聞いた気がした。


それから、いくばくかの時が過ぎた。


1.

ある朝、「それ」が長い長い眠りから覚めた時、自分がベッドの上で一人の男にかわっていることに気づいた。


「それ」は久々の肉体の感触に戸惑いながらも、頭を少し上げると、意外なほど筋肉質な自分の腹と足が見えた。同じく筋肉質な胸の上には、掛布団がすっかりずり落ちそうになって、まだやっと持ちこたえていた。


そしてそのままあたりを見回せば、今自分が乗っているシンプルなベッドに、その横にはサイドテーブル。その上にはがっしりとした作りの一本の軍用ナイフ。それと一枚の家族写真が写真たてに入れられている飾られている。そして枕の下には一丁の自動拳銃。まるでマフィアの寝室じゃないか。そんなことをぼんやりとした頭で考える。のそのそとした足取りでベッドから這い出る。ベッドわきの大きな姿見の前に立つ。そこに映っていたのは50代ぐらいの男。左目に刀傷を持つ、かつて「それ」をスラムで拾った男の姿。「それ」を山小屋で殺した男の姿だった。


戸惑いとともに、ずきん、と。激しい頭痛が「それ」を襲う。


そこで感じるのは感情の奔流。男の50年分の人生が、思いが濁流として押し寄せてきた。自我が押し流れそうな恐怖に、必死に耐える。だが頭痛が収まると、自分は霊体となって、この男に取りついているということを『理解していた』。それと同時にこの肉体に一人の娘がいることを『思い出した』。


理屈はわからない。ただ、そういうものなのだと、あるべきものがあるべきところに落ち着いたような、奇妙な安心感を伴ってそういう風に『理解された』。


そしてこの肉体はまるで自身のもののようによく動く。肉として食うには老化で硬くなり、筋張っていて食べるのに苦労しそうだ。だがこの体を自分のものとして使えるなら、それも悪くないとぼんやりと思った。そして、そこまで考え、この奇妙な現象の正体についてそれ以上考えるのをやめた。何せ、自分の理解を超えている。ならば、現実を受け入れたほうがいい。


それよりも、この体の記憶にあった『娘』についてだ。娘は、17歳の一人娘で、男のなき伴侶によく似て、ずいぶんな器量よしらしい。なんでも、マフィアの娘に似合わぬどこまでも純粋な子なのだとか。かつて「それ」を慕った少女のように。


「それ」はうっそりと笑った。目覚めてから、腹がすいて仕方がなかったのだ。少女はいい。柔らかくて食べやすいから。


なんの因果か、得られた二度めのチャンス。これを無駄にする気などさらさらなかった。なんと言っても、死の間際あきらめかけた、あの美味の探究。それを再開することができるのだから。


2.

時計を見ると記憶によればそろそろ娘がこの体を起こしに来る時間だという。「それ」は急いで体をベッドの中に戻した。声をかけても起きなければ、必ず娘はベッド元までおこしに来る。それがこの体の『記憶』だった。ならばその際に一撃で殺す。


さあ、来た。とんとんと軽快な足音と共に。


「お父さーん、朝だよ!そろそろ支度しないと、仕事に送れちゃうよ!」


ガチャリと寝室のドアが開かれる。


そこにいたのは確かに器量のいい娘だった。肌は色白、目元はきりりと涼やかで強い意志を感じられ、鼻筋もすっと通っている。今は微笑みをたたえる口元は小ぶりで、唇はきれいな桜色だ。烏の濡れ羽色の髪は肩もとで切り揃えられ活発な印象を受ける。足はすらりとして美しく、胸は控えめだが形がいい。総じて爽やかな印象を受ける、とてもきれいな娘だった。どこまでも純粋で、世の中の汚れを知らず。それでどこまでもあの時の少女に似た娘だった。


たらりと。「それ」は思わず涎が零れ落ちるのにも構わず、ただじっと娘を見つめる。ああ、何と美味しそう。

心の底からそう思う。「それ」は自問自答する。ここまでに美味しそう獲物はいつぶりか。今まで食った獲物の中で、最初の少女を除けば、一番うまかったのは五番目の少女だった。だが、こいつの旨さはそんなところじゃないと、本能が告げていた。ひょっとしたら、最初の少女に匹敵、いや、あるいはそれを超えるかもしれない。そんな予感に胸が高鳴る。


こんな上等な獲物を、ただ飢えを満たすためだけに喰らう?とんでもない。それは生命に対する冒涜だ。その全てを敬意を持って味わわねば、生命に対する冒涜というもの。だから、敬意を持って一撃で殺す。せめて、痛みすらも感じないように。


視界が殺意で赤く染まる。もはや「それ」に我慢の二文字はなかった。


瞬時にベッドから身を起こすと、さすがに異様な様子の父親に不審な顔をしている娘の腹部に、加減した一撃を叩き込む。それであっけなく娘は意識を失う。何千何万と繰り返えした動作。決して目標を外すはずなどない。そして、そうなるはずであった。


だが。


ぶおんという重々しい音を残して空を切る剛腕。躱した、のか?そう思いあたりを見渡すとぺたりとへたり込んだ娘。どうやら殺意が先行するあまり、あふれ出したあまりの殺意に娘が腰を抜かしたようだった。失敗失敗と、「それ」はつぶやく。あまりに久しく人の身を失っていたがゆえに、勘が鈍っているようだった。


「お父、さん……?」


切れ長の目に涙をたたえた娘がぽつりとつぶやく。何が起こっているのかわからない。そんな目で。


だが、「それ」は一切の躊躇なく第二撃を胸部に放つ。今度は正確に娘の胸のど真ん中を正確にとらえ、ぽきぽきという手ごたえとともに弾かれたように転ぶ娘。十分な手ごたえだ。


常人ならそれで気絶するか、もしくはあまりの激痛に地面でのたうち回るかするだけになるだろう。


しかし。それでも。娘はよろめきながら立ち上がると、ふらふらとした足取りながら廊下へと逃げだした。誰か、誰か。おとーさん。そう喘ぐように呟きながら。


何が起こっているのかはわからない。それでも自分の父親が不可逆的に異質なものへと変化した。そのことを直感的に理解して。


そしてもし「それ」につかまれば、死よりおぞましい事態にあう。そのことを理解して、娘は気を狂わせんばかりの激痛をも我慢して娘は必死に逃げる。永遠に失われた父親に絶望の涙をこぼしながら。せめて外に出て助けを呼べば、まだ助かる道はある。そう信じて。


だが、娘の必死の逃避行は唐突に終わった。後方から高速で投げつけられた軍用ナイフが、可憐な左足の半ばに深々と突き刺さったことによって。そのはずみにサイドテーブルから写真たてが転げ落ち、割れる音が響く。零れ落ちる一枚の写真。そこにはかつて男が大切にしていた、男と娘、そして生前の妻が写っているたった一枚の写真だった。


だが、「それ」はそんなものに目もむけず、血を流す足を抑えて絶叫する娘に、ゆっくりと近づく。


そしてむんずと、まだ無事な方の足首を掴むと、ずるずると引きずって寝室のほうに向かっていった。


「やめてやめてやめて!放してよ!助けて!お父さん!」


必死に「それ」の腕を殴り、ひっかく娘。「それ」の皮が裂け肉が露出するが、「それ」に一切気にするそぶりはない。どれだけこの体が傷んだところで、それはただの器に過ぎない。もはや、どの体に乗り移るも自由自在、そういう存在になったのだと『理解』していた。


だがそうはいってもあまり暴れられるのも興が覚める。寝室の真ん中にたどり着いたあたりで、必死に暴れる娘の顔面を2度、3度と殴りつける。ぐったりとして意識を失う娘。


さて、と。


「それ」は静かになった娘をじっくりと眺め回す。足の出血から全体的に血の気が引いてはいるものの、やはりとても美しい娘だった。どこまでもあの少女に似た娘。なぜだかはわからないが、ずきりと胸が痛んだ気がした。その不思議な感覚に一瞬目を細めるも、すぐに娘に目を向ける。


美しい少女。美しい娘。万が一意識を取り戻して暴れられ、それ以上肉に傷がつくと困る。ゆえにその華奢な体に馬乗りになる。そして「それ」は、さっそく獲物にありつくことにした。まずは手からがいいだろうか。そう考えると、ゆっくりとナイフケースからナイフを抜き放った。


3.

どこまでも、どこまでも静かになった寝室。花瓶の横に、娘の生首が置かれている。その瞳は生きながら食べられる激痛に開き切っていて、生前の快活さは見る術もない。


美味しかった、と「それ」は呟く。そう、確かに美味しかった。一番最初に食べた少女に匹敵するか、あるいはそれ以上に。


でも、満たされない。まだ足りないと心のどこかが叫んでいる。まるで、どれだけ食べても満腹にはなれない。そんな心地。心の中をびゅうびゅう隙間風が吹き抜けていくような。その感覚はたまらなく不愉快で。舌打ちを一つ。慣れ親しんだ動きで葉巻をカットし火をつける。初めて葉巻を吸うが、これも悪くないとホッと一息。


何の因果か、まだ自分は生きている。これを生きていると言っていいのかはわからないが、まだ自分はここにいる。ならば食べよう。お腹がいっぱいになる日まで。このどこまでも冷え込んだ胸の内が満たされるまで。


なに、食べるものなら一杯あるじゃないか。時間もまだまだある。せいぜいこの身体には付き合って貰おう。そう考えうっそり笑う。


カーテンの隙間からは、どこまでも眩しい朝日が差し込んできていた。

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ある食人鬼の物語 間川 レイ @tsuyomasu0418

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