憂鬱なカンダタ

町乃 狩竜人

第1話:狙撃者

『狂ってる』


 わずかな隙間から見える空を眺めながら、この夏の暑さに狙撃者は思わずそう呟いた。


 去年以上の遥かに狂った様な暑さをつれて、去年よりも早く今年の夏が到来した。照りつける日差しは狂人が振り下ろすナイフのように容赦なく、一分の隙間もなくメッタ刺しに降り注いでいる。


 見渡すかぎり砂漠が一面に続くここは、中国山東省青島市・炉口地区の海岸線。生きているものは自分以外、空を舞うカラスとカモメぐらいしか見当たらない世界。

鳥になれて上空からこの海岸を見下ろせたとしても、海岸線の砂の黄色と海のブルーの帯の先は、どこで終わっているのか見渡すことも出来ないだろう。それほどまでに、この世界の砂漠化は進行していた。


『鳥になれるくらいなら、こんな所には居ない……』


 そう心の中で呟いて目を転じると、砂漠となった海岸線に、粗末な木で作った十字架が無数に立っているのが目に入る。


 いつ誰が立てているのかは知らなかった。自分がここに居る時はこの地域に足を踏み入れる事は不可能なので、国境警備隊が黙認しているのだろう。両手両足の指で数えられないほどで、百数十はあると思える数が並んでいる。


 粗末な十字架とはいえ、太陽に焼かれて萎びた花束や、セピアを通り越してわら半紙のようになってしまった写真などで、誰に捧げられたものかは確認できるほどの哀悼は添えられている。


 狙撃者の心には、眼前のそんな光景に反応して起きる感情はまったく存在せず、感じるのは残酷なくらいの乾きだけだ。左肩にくくりつけられたパイプを左手で口元に近付け、喉を鳴らさないぐらい少量の水を背中のキャメルバッグから吸い出す。


 ここでの任務には食料も確かに必要だが、それよりも水がサバイバビリティを左右する大きな要素になっている。状況に何も変化がなければ、今回の任務はあと3日は続く。残された3日間を全く水がない状態で過ごす、なんていうのは絶対御免だ。


 以前たった6時間だけだったが、まったく水の無い状態で過ごした時のことは忘れられない、だからそれがどんなに辛い事か痛いほど知っている。自分の体がまるで乾ききった干物の様になり、まる1週間は任務に就けなかったからだ。


 突然狙撃者は表情一つ姿勢一つ変えず、心にさざ波一つすら立てず、前方に気持ちを集中させた。視界の端に何か動きがある……ゆっくりと体をそちらに向ける。〝犬小屋〟と呼ばれる狭い簡易なシェルターの中で、体の向きを変えるのはなかなか難しい。まして性急な動きはここに自分がいる事を知らせる事になるので、絶対避けなければならない。


 目に入ったのは、ゆっくりと海上をこちらに向かってくる物体だった。腰の弾帯に装着してあるポーチから小型の双眼鏡を取り出し目に当てると、拡大された視界の中で粗末な漁船が近付いて来るのが見える。ボディーは海と同じようなブルーに塗られ、人間の乗っている部分にもブルーシートが掛けられ上空からの識別が難しくなっている。わずかな光の反射の違いが、狙撃者の注意を引いたのだ。


 何とか接岸した漁船から降り立ったのは、安っぽいシャツや破れたズボンを履き、一目で難民と判る十二人ほどの一団で、その中の二人が残った十人を陸地に追いやっている。どうやらあの二人が手配を請け負った犯罪組織の連中で、残りの十人が難民だろう。


 何の警戒もせずに三千世界に響くほどの声をあげている彼らを見て、何度感じたかわからない微かな憐れみが心に浮かぶ。彼らが警戒もしていないのは当然で、今日の国境警備隊の配置図には、この区域に何の監視もないはずなのだ。犯罪組織の連中は国境警備隊の情報を内部のスパイから得て、この場所に上陸する段取りを採ったのだろう。もちろん自分がここに陣取っている事など予想もしていない。


「早ク上がレ!」


 犯罪組織の人間が声を荒げている。日本語だ、日本からの不法就労者を連れてきたのだ。何となくイントネーションがおかしいのが聞いてとれる、多分受け入れ側の中国の組織の人間なのだろう。


 狭い貨物船で送られてきた難民たちの浅黒い肌は汗にまみれ油で汚れており、足元が不安定な砂漠化した海岸をフラフラと歩いていた。ここに着くまで僅かな水と食料で何日も過ごしてきたので、体力がかなり落ちているのだ。眼窩はくぼみ息は切れかかっているが、瞳は希望を失っていない。何人かの難民達が熱い砂に足を取られ倒れるが、意志の力だけで砂と油で汚れた体を起こし、よろよろと立ち上がる。


 そんな難民たちの事情を知っていても、狙撃者の心は動かない。持っている双眼鏡をっくりとした動作で腰のポーチにしまうと、目の前にある狙撃銃をそっと持ち上げる。ソビエト製のドラグノフSVDと呼ばれる狙撃銃で、設計は1950年代と古く、近代狙撃銃の流れからはかなり取り残されたシロモノだが、与えられた装備としてはかなり上等な部類に入る。


 近代狙撃銃は命中精度の向上のために、ボルトアクションという手動で弾薬の装填・排莢を行う銃を基本に設計されている。しかしこのドラグノフSVD狙撃銃は自動で弾薬の装填・排莢を行う機関部を採用しており、次々に目標をとらえて射撃する事が出来る。それは狙撃者がこれから行う任務に最適であった。


 狙撃者は銃床を下から押し上げるように、頬と肩に押し当てた。そうすると常に肩と頬の適正な位置に銃床を押し当てられるのだ。見開いた右目の正面に狙撃用のスコープ=照準眼鏡がセットされ、レティクルと呼ばれる見慣れた特徴ある照準線が目に入る。尿意を軽く感じていたが、集中した狙撃者の心の中からは霧散した。


 照準線=レティクルには測距離用の目盛りが入っており、狙撃者は照準器の中で難民たちまでの距離を測る。距離は250mぐらい、微妙な距離だが問題は無い。上下を調整をするエレベーションノブと呼ばれるダイアルの目盛りには、既に各距離用の妥当な位置に手書きで距離が書いてある。狙撃者はスコープに目を当、素早くエレベーションノブを250mの位置にクリック数を頼りに動かす。視界の中でレティクルが微妙に下がったのを確認して、本隊について亜rことで狙撃者は砂漠を歩いている難民たちに照準を向けた。


 難民達の唇はカサカサとなり肌も潤いを無くしてはいるが、眼前に広がる陽炎の立つ一面の砂浜にめげることなく、手を握り締め歯を食いしばり黙々と歩き続ける。


「シッカり歩ケ!」


 犯罪組織の二人はペットボトルの水を飲みながら、難民達を追い立てて行く。難民達のゆく手には立ちふさがる様に砂丘が広がっている。難民達は一様に不安と動揺を見せる。


「登レ!」


 組織の連中に急きたてられる様に、難民達は意を決して砂丘を昇り始める。砂丘は急でなかなか昇れないが、難民達は段々なにかに憑かれたように登り続ける。

そんな難民たちの行動を観察しながら、狙撃者は軽く溜息ついた。


『自分たちを待っている運命を知っていたら。あの壁を登っただろうか?』


 自問しても、答えることは無い。


 狙撃者はいちばん後ろの難民に、真っ黒に塗ったスプレー缶のような大きな消音器が装着された銃口を向ける。難民達の運命は、狙撃者に見つかった時点で決まっていた。


  ◇


 先頭の難民の男の手がついに頂上に掛かり、その体が引き起こされる。目に入ったのは砂漠の先にある防砂林、さらにその先に見える街の姿だった。彼は喜びに全身をわななかせ、叫んでいた。


「自由だ! 俺達は着いたんだ!」


 もう四十歳に手の届く彼は、三十代の頃は東京築地の中央市場にあった中規模の食品卸メーカーで懸命に働いてきた。しかし働いても働いても生活は変わらず、むしろ状況はどんどん悪くなっていった。それは働いている会社だけの問題ではなく、殆どの会社は同じ様にあえいでいた。2010年代に中小企業の海外進出が取り沙汰されたが、彼が勤めていた会社は海外に出て商売になる様な業種ではなく、日本国内だからこそ何とか商売が出来るものだった。


 2020年の東京オリンピック開催に伴い、築地から豊洲市場に移転するに伴って、彼の勤めていた会社も多額の費用を掛けて移転した。会社はそうしないと事業を維持できないと考えたからである。


 しかしオリンピックが終わると景気はさらに悪化した。オリンピック開催までは政府も景気の下支えをするために様々な手を打ってきたが、オリンピックが終わるとその下支え策そのものが景気の足を引っ張った。オリンピックの為に作られた設備の維持や保守なども同じように負担になった。消費は低迷し、雇用は落ち込み、株価も下落が続いた。


 とうとう会社が倒産し、働く場所が無くなると彼は途方に暮れてしまった。今更日本国内に再就職出来るアテも無く、また社会全体にもそんな余裕はない。退職金も払われず貯金を取り崩していったが、いつまで生活が出来るかという程度の蓄えしかなかった。


 そんなある日、知人から『中国で不法就労しないか』という話を持ち掛けられた。日本と違い中国にはまだ仕事があり、日本人が独自の街をつくり商売をしているという話だった。そこで一発当てれば金持ちになれる、そんな夢の様な話まで出た。


『先行きの見えない日本でこのまま餓死するくらいなら、働ける中国の方がまだましだ』


 彼は、なけなしの貯金をはたいて中国で不法就労する道を選んだ。結婚もしておらず、両親とはもう何年も連絡は途絶えている。失うものが何もないなら別に日本にしがみついている事も無い。彼は他の九人と一緒に貨物船のコンテナに押し込まれ日本を離れた。


 ここに辿り着くまでを思い出し、彼は静かに涙した。


『今までの人生を振り返るなんて、死ぬ前でもあるまいに……』


 おかしな感覚を覚えて彼は一人自嘲する。しかしその感覚は間違いではなかった。


 自分が昔の事を思い返している間、思考を遮るような邪魔が全く入らなかった。まるでこの場に自分しかいないようだ……後から誰も登って来ないのも変ではないか?


 彼は振り返ったが、あとから誰かが登ってくる気配はまったくない。恐る恐る彼は自分が登ってきた砂丘のへりまで行き、見下ろした。


 おかしな風景が広がっていた。残りの九人と組織の二人は、砂丘の壁に描かれた奇妙な壁画の一部の様に張り付いていた。


『死んでいる』


 直感出来た。さんざん苦労してこんな所にまで来て、ふざけた事をしている余裕などあるわけがない。恐怖が心にこみ上げてきた瞬間、突然視界が真っ黒になり全ての音が消えた。


 体から力が抜けていき落ちて行くのが判ったが、それで終わりだった。本当に全てが終わる時=死ぬ時は人生を振り返る余裕すら無かった。


  ◇


今の射撃は上出来だった。最初に登り切った難民が振り返って衝撃を受け、硬直した瞬間に頭を撃ち抜いた。あれなら痛みを感じる間もなく死んだだろう。


 銃から蹴り出された12発の薬莢を揃えて並べ、砂を丁寧に拭って腰から出したポリカーボネイト製の弾薬ケースに入れる。回収した薬莢は後で再利用するため、なるべくきれいな状態で持ち帰りたい。20発入りのこのケースは蓋の周囲にゴムがはめられていて、内部に砂が入り込まないようになっている。弾薬ケースをポーチに戻し、砂除けに防水袋に入れて立てかけてあったタブレットを持ち上げた。バッテリーを節約する為に電源を落としてあったので、メインスイッチを入れて電源を回復させる。この仕事をしていて、一番うれしい連絡を中国語で打ち込む。


『こちら第294区担当、難民十名と斡旋業者二名を処理。回収願う』


 送信後、ほんの数秒後には返信が届く。


『了解。回収予定は明日夜20:00』


 返信を確認し、回収予定が遅いことに狙撃者は僅かに顔を曇らせるが、そんな事は些細なことだ。今日の成果で二日は余計に休みが取れる。砂まみれになった髪や体をゆっくり洗いたいし、なによりこの砂と太陽と死の充満した空間から少しでも離れたかった。


 人のいっぱい居るところでお茶もしたいし、お気に入りの音楽も聞きたい。そんな事を何気なく考えながら、もう一度外を眺める。何も変りはなく、太陽だけがこの砂浜を焼き尽くそうと照らしている静かな海岸線の景色が目に入る。しかし銃のスコープを覗けば、その海岸線は死の静寂が充満した海岸線に変わっていた。


 この地点から上陸しようとした難民が全員射殺された事は、すぐに伝わる。この地点は死のポイントとして一躍有名になり、しばらく誰も近付かなくなるはずだ。


「憂鬱だ」


 〝カンダタ〟と呼ばれる狙撃者は再びそう呟くと、口元のシャマグを持ち上げ警戒態勢のまま迎えの車が到着するのを待った。

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