来客

「……はっ」


 自分の吐息だけが静寂の中で響く。

 手のひらにベッドの柔いシーツが触れる。胃がずっしりと重いのを感じながら。

 それでも起き上がり、窓の外へと寄る。窓を開けると、冷たい風が心地よかった。

 今のは悪い夢だったのだ。真理恵さんが他の男と一緒にいるなんてぼくの妄想、一人で寂しく夕食を食べたぼくの胃もたれが引き起こした悪い夢だ。

 自嘲したとき、階下からガチャリと音が聞こえた。


「真理恵さん?」


 素っ頓狂な大声を出してしまう。

 すると、返事が返ってきた。


「そうだよ、栄一さん」


 全身に温かな血が巡る感覚があった。

 ほら、帰ってきた。ちゃんとぼくのところに戻ってきてくれた。


「真理恵さん!」


 階段を駆け下りた先の玄関、真理恵さんが立っていた。美容室にでも行ったのか、長かった髪は短くて、鮮やかなピンクになっていたけど真理恵さんだった。


「おかえりなさい。会いたかったよ」


 強く抱きしめると、腕の中でううっと呻き声が聞こえた。


「ちょっと、苦しいよ」


 いけない。彼女を想うあまり、腕に力がこもりすぎていたらしい。

 ごめんごめん、と笑いながら彼女を離したときだった。


「……誰なんだ」


 玄関口、少し距離を置く形で一人の青年が立っていた。

 青白い顔をした彼は神経質そうな目でぼくの家の中を見回したあと、ぼくを見つけた。

 ぶちん。ぎょっとした彼の目とぼくの目が合ったあと、何かが切れる音がした。


「真理恵さん、彼は誰なんだ」

「誰って、私の大切な人」


 私の大切な人?

 それはぼくだけじゃないのか。


「ふざけるな!」


 気づけばぼくの手には、ローストビーフと野菜を切った包丁が握られていた。

 危ない!

 叫んだのは誰だったのか。そんなことはどうだってよかった。

 真っ白い顔を向けて固まっている青年がただ憎かった。


「ダメ!」


 叫んだ真理恵さんが、青年の前に立ちふさがる。

 ずぶりと鋭利な刃先が、柔らかい肉の中に滑り込む感覚。

 包丁の先は、真理恵さんの腹の中に刺さっていた。

 

「……あああああ」


 絶望で痺れ始めた手から、固い柄が離れる。

 そんなつもりは、そんなつもりはなかったんだ。

 ぼくはただあの若いやつだけを殺すつもりで。

 ずきん、と頭が痛みはじめる。前頭葉が激しく、ずきずきと。

 ごめんなさい、真理恵さん。ぼくのかわいい真理恵さん。


「痛い、痛い痛い痛い痛い」


 頭だけじゃない、さっき切ったばかりの指もまた痛み始める。

 あまりの痛みで吐き気すら催してきた。


「嫌だ、こんなのは嘘だ。嘘なんだ……うっ」


 吐き気をこらえきれず、口から熱いものが飛び出す。出てきたのはレバーのような赤黒い血の塊だった。

 あるはずのない赤も視界に入ってきた。

 シャツを着たぼくの腹は血に塗れていた。赤い染みが白い布地をじわじわと浸食していく。

 どうして。

 ぼくはとうとう膝をついた。


「……あさいえいい、ちさん」


 真理恵さんの苦しそうな声。

 はっとして彼女の方を見ると、包丁が腹に刺さったままの彼女がいた。

 

「言っとくけど私は……ううん、あたしは麻井、真理恵さんじゃないから」


 ほう、と彼女が深く息を吐く。


「なら、誰なんだ?」


 ぜえぜえと重い息をつきながら、腹を真っ赤に染めた彼女はまっすぐにぼくを見ていた。


「思い出して。あなたは大切なことをいくつも忘れている」


 ずきん。

 また頭が痛みだした。ぼくの前頭葉をしばりつけるように。


「十七年前、ここで全ては終わったの」

「わからないな、君が何を言ってるのか」

「逃げてはダメ。ゆっくりでいい、思い出して」


 麻井栄一さん。


「あなたも麻井真理恵さんも、みんな死んでいるんだよ」


 ずきん、ずきん。


「ああああああああああああ!」


 あの日、真理恵さんは夜遅く戻ってきた。

 玄関で品性の欠片も持たず、ぼくの知らない男と抱き合って唇をくっつけ合っていた。

 やがて真理恵さんは振り向いて、言った。


『まあ栄一さん、まだ起きていたの。もう寝てるかと思ったわ』


 深紅のルージュを引いた唇がぼくをあざ笑った。隣にいたあの男も笑った。

 失っていた記憶たちが、泡のようにぼくの頭の奥から蘇る。

 それから、ぼくは刃物を持ち出した。

 

「……殺したんだ、二人とも」


 我に帰れば、目の前には二人が倒れていた。全身をずたずたに切りつけられて。

 絶望したぼくは、ぼくは。


「ぼく自身も殺したんだ」


 脈打つ腹から、ぼたり、ぼたりと重い雫が床に落ちた。それは美しくて醜い赤だ。全てを思い出したぼくへの罰だ。

 悪夢だと思っていたものは全て記憶。ぼくが過去に犯した罪の記憶だ。


「……ふうっ。思い出せたようで良かった」


 ぼくが全て思い出したからか、女性が自身の腹から包丁を引き抜いたからか。

 彼女の声は妙に晴れ晴れとしていた。


「これからぼくはどうすればいいんだろう?」


 泣きながら、ぼくは彼女に問うた。こんな簡単なことすらぼくにはわからない。

 カラン。女性が腹から引き抜いた包丁が、寂しい音を立てて床に落ちた。


「ここにはもういない方がいい。もうあなたの場所じゃないから」


 あなたが行くべき場所に行かないと。

 静かな声で彼女が言った。


「そんなところ、あるのかな」

「あるよ。魂だけになったあなたが行くべき場所。生きてるあたしたちがいるこの世とは逆のあの世ってところだね」


 彼女は天井のあたりを指さした。


「あなたをそこへ導こうとうちの若いのが何とかしてくれる。声に耳を傾けて、きっとあなたのためになるから」


 白岡くん、お願い。

 女性に声をかけられた背後の青年はこくりと頷くと、口を動かし始める。


「さようなら、麻井栄一さん」


 最初は何を言っているのかわからなかったが、よく聞くとそれはお経だった。

 なぜなのかはわからない。だが、それを聞いていると不思議と心が落ち着いた。あれだけ酷かった痛みも引いていく。

 段々と周りの景色が白くなっていった。完全に見えなくなる前に言わなくては。


「ありがとう、色々と」


 ありがとう。ぼくに全てを返してくれて。


「酷いことをして、ごめん」


 こんなことでぼくのしたことが許されるわけじゃないけれど。


 はて、ぼくはどこに向かうんだろうか?

 そこまで考えて、途切れた。

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2025年12月25日 09:00
2025年12月26日 09:00

孤独な王様の城 暇崎ルア @kashiwagi612

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