日常
発砲スチロールの容器のフタを取ると、ピンク色の血合いが美しいローストビーフが顔を出す。胸を躍らせていると、背後のリビングで低いバイブ音が鳴った。
真理恵さんだ。さっき「今日は何時に帰ってこられそうですか?」とメールを送ったから。
「ごめんなさい、友達と遊ぶので今日も遅くなります」
変身を確認し、即座に携帯を閉じる。
トン、トン、トン。
サラダ用のレタスを切る包丁の音がやけに大きく響く。
いいじゃないか、こんなこと今日に限ったことじゃあない。彼女も毎日仕事に行っていて忙しいし、遊ぶ時間だって必要なんだ。
決してぼくたちは仲が悪いわけじゃない。真理恵さんだって、ぼくの奥さんらしく甘えてくれるときもあるんだから、十分じゃないか。
ある日の金曜日、珍しく早く家に帰ってきた真理恵さんが「美味しいフレンチのレストランを見つけたの。行きましょうよ」と甘い声でねだってきたことがある。当然ぼくはすぐに承諾した。
フレンチに行く当日、窓から朝の陽ざしが入る部屋の中。ぼくの背よりも高い姿見の前に立った真理恵さんは、身支度をしていた。
背中まで伸びた黒髪をポニーテールにしようと励む彼女の両腕の間から、日に焼けていない白いうなじが見えた瞬間、無性に嬉しくなった。
「真理恵さん、今日も綺麗だね」
ぼくがそう褒めると、彼女は恥ずかしそうに顔を赤らめたっけ。あのときの真理恵さん、本当に可愛かったなあ。
駅前にある厳選された食材だけを扱うスーパーマーケットでローストビーフを買ってきたときもすごく喜んでくれた。「すごい、栄一さんは私の好きなものがわかるのね」と子供のようにはしゃいで。
ローストビーフはほとんど真理恵さんが食べてしまって、ぼくは少ししか食べられなかったけど幸せだった。大切な人を笑顔にできることの方が大切だったから。それからも何度もローストビーフを買って、ぼくが寝ている時間に帰ってくる彼女のために冷蔵庫にご馳走として入れておいたぐらいぼくには嬉しかった。
ぼくの真理恵さん、かわいい真理恵さん。今君はどこにいるんだ? こんな寒い真冬に、どこで何をしているんだい?
もしかしてぼく以外の人といたりするのか?
「お前の家の最寄り駅で男の人と一緒にいる真理恵さんを見たよ」と兄に言われたことがある。そのときは「兄さんの見間違いだよ」とつっぱねたけど、もしかして。
兄さんの言う通りなんだろうか? 兄さんのでまかせだと思ったのに。あの人は時々、ぼくに嫌みを言うことがあるから。
そうだ、全ては兄さんのせいだ。兄さんがあんなことを言うから、余計なことに心を使わなくちゃいけない。
「……いっ」
「痛い」と言い切る前に、指先に鋭い痛みが走る。じんわりと熱いものが指の中から出てくる感覚。考えごとをしながら野菜なんて切るからだ。
傷口の血に絆創膏を貼りながら考える。こんなときに真理恵さんがいてくれれば、痛みも少しはマシになるだろうかと。
カチャリと玄関のドアが控えめな音で空いたのは八時過ぎのことだ。
自分の部屋で集中できず、読んでいるのかいないのかわからなかった本を置き、階段を駆け下りた。
「真理恵さん、お帰り!」
くすくすと笑う彼女の明るい声が聞こえた気がした。
彼女に会ったら強く抱きしめよう。「顔を見られて嬉しいよ」と伝えよう。
そんな考えはどこかに吹き飛んだ。
靴脱ぎ場には、二人の男女が抱き合っていた。
横顔の輪郭と輪郭が溶けてしまいそうなほどくっつけ合って、熱い口づけをしている二人が。
「……何をしてるんだ」
短髪の男にくっつく黒髪のポニーテール。
つぶやきを漏らしたぼくに気づいた真理恵さんが動きを止め、ぼくを見た。
「まあ栄一さん、まだ起きていたの?」
モウネテルカトオモッタワ。
「悪いけど、あなたとはもう終わったの。諦めてちょうだい」
歪んでいく。真理恵さんの整っていた顔が、顔中心で渦を巻くように歪んでいく。
「ああ、あなたが真理恵の旦那さんですか。お邪魔してます」
あっはっはっは! と頭をがくがく揺らしながら笑う真理恵さんの脇で、ぼくより若い青年がにやにやと笑っていた。
彼の顔は、真理恵さんがつけたルージュと唾液でべっとり濡れた唇意外何もついていなかった。目も鼻もない、下卑た笑いを浮かべる口だけがついているのっぺらぼう。
ああ、吐き気がする。
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