卵の中の沈黙
ラズベリーパイ大好きおじさん
卵の中の沈黙
あの夏の終わり、不意に訪れた涼気が杉林を揺らす頃、円覚寺の庫裡で最後の卵が割れた。
料理担当の雲水が、「おかしいです、朝のうちはまだ十個ありました」と蒼白い顔で報告してきた時、私はまだそれが連続する怪異の終章に過ぎないと楽観していた。
卵が消える。卵が移動する。卵が無傷のまま中身を失う。
一ヶ月前から続くこれらの小事件は、悪戯か、あるいは誰かの無自覚な夢遊かと思われた。しかし、住職である私の眼前で、笹の葉の折敷に載せられた最後の一個が、微かな軋む音と共に自ら裂け、透明な白身のみが陶器の皿に流れ出た時、その中心にあったはずの黄金の球体が完全に欠如しているのを認めて、私は初めて非情な悪意の存在を悟った。
殻にはひび割れ以上の損傷はない。内側から黄身だけが抜き取られたような、不自然な滑らかさがあった。
「これは…」
と呟く私の声も虚ろだった。卵は生命の始原であり、密教では混沌たる宇宙の譬えでもある。その核心が失われるとは、何を意味するのか。
寺を挙げての捜索も空しく、翌日から私たちは卵というものを見なくなった。正確に言えば、町の店頭に並ぶ卵は変わらず存在するのだが、円覚寺の境内に持ち込まれた途端、それらは二十四時間以内に同様の怪異によって「中身」を失った。
鮮魚も野菜も豆腐も普通であり、卵だけが選ばれて冒涜される。物理的な侵入の痕跡は一切ない。犯行は常に死角で、しかも殻を破らずに行われる。
庫裡の者たちの間には、得体の知れない畏怖が広がっていった。無類の卵好きとして知られた先代住職が遷化して、ちょうど四十九日が過ぎた頃から始まったこの怪異を、誰もが先代の未練やら祟りやらと囁き合うが、私は違う考えを持っていた。それはもっと計算ずくで、冷徹な意志に貫かれた「何か」の所業だと。
私はこの寺で生まれ育った。大学で宗教学を修めた後、他山での修行を経て帰寺し、五年前に先代の急逝を受けて三十七歳の若さで住職を継いだ。周囲からは学識も人徳も不足していると陰口をたたかれもしたが、私はむしろ合理主義的な立場から寺務を改革し、坐禅会や写経体験などで若い参詣者を増やすことに成功してきた。
その私が今、非科学的な怪異に頭を悩ませているのは皮肉なことだった。だが、この事件は単なる心霊現象では片付けられない不気味な整合性を示していた。
まず、犯行対象が卵に限定されている点。
次に、被害が連続しているが、卵の供給を絶てば物理的な損害は皆無である点。
そして最も奇妙なのは、犯行が常に「完全犯罪」たることを誇示するかの如く、痕跡を残さない点だ。
まるで、私たちに「お前たちには防げない」と嘲笑しているようだった。
そんな折、町の公民館で犯罪心理学の講演会が開かれ、講師として招かれたのがK大学の犯罪社会学教授、高瀬聡子だった。彼女は若くして数々の難事件のプロファイリングで実績を挙げ、「心理の考古学者」の異名を取る才女である。
講演後の質疑で、私はためらいながらも寺で起きている奇怪な事件の概略を伝え、意見を求めた。すると高瀬教授は興味深そうに眉を上げた。
「それはとてもユニークなケースですね。もしよろしければ、直接現場を拝見させていただけませんか」
彼女の目は、学者の冷静な好奇心に輝いていた。
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三日後、高瀬聡子は軽い旅行鞄一つで円覚寺を訪れた。四十歳前後だろうか、切れ長の眼に知性の光を宿し、物静かな物腰の中に確かな芯を感じさせる女性だった。
早速、庫裡の台所から始まり、卵が保管されていた冷蔵庫、そして最後の事件が起きた私の居間までをくまなく見て回った。彼女はメモを取ることもなく、ただじっと空間を見つめ、時折指で柱や縁側の桟を撫でるように触れた。
「犯行はすべて屋内で起きていますね。しかも人の目が届きにくいが、完全な密室ではない場所。つまり、見られる危険を冒しながらも、あえてそのスリルを楽しんでいる可能性があります」
と彼女は呟いた。
「ただし、動機が不明です。卵への執着という特異なフェティシズムか、あるいは寺という場への挑戦か。住職、寺に関係者で卵に因縁のある方はいらっしゃいますか」
私は先代のことを話した。先代は卵料理が大好きで、特に出汁巻き卵は絶品だった。病に倒れる直前まで、自ら台所に立って卵を割り、「玉子はな、宇宙のひな型じゃ。丸くて、温かくて、中に無限の可能性を秘めとる」が口癖だった。
その先代の死後、寺では少しばかりの遺産相続を巡るいざこざが起きていた。先代の実弟で、町で小さな工務店を営む男が、寺に預けていたという金の行方を執拗に問い質してきたのだ。しかし、その話と卵の怪異がどう結びつくのか、私には見当もつかなかった。
高瀬は庫裡の者たちに短い面談をしていった。料理担当の雲水、掃除を担当する老女、庭園の手入れをする植木職人、そして私の叔母で寺の実務を取り仕切る倅子(せつこ)にも。
皆、緊張してはいたが、特に隠すような態度も見せなかった。ただ、高瀬が植木職人の義雄に「卵を食べられますか」と尋ねた時、彼の顔が一瞬ひきつったように思えた。
義雄は六十歳近い無口な男で、十年以上も寺の庭を手入れしてきた。彼は黙って首を振り、それ以上何も語らなかった。
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その夜、高瀬は私の勧めで寺の客間に宿泊することになった。月明かりが縁側に白く積もる頃、私たちは庭を眺めながら抹茶を啜り、事件について語り合った。
「心理的な犯行声明の一種かもしれません」
と高瀬は言った。
「犯人は、卵というシンボルを通じて、寺や住職あなたに何かを伝えようとしている。あるいは、かつてここで傷つけられた自らの“核心”が、卵という形で抜き取られてしまったというトラウマの再現かもしれない」
彼女の言葉は鋭く、私の胸に突き刺さった。私はふと、自分が住職となって以来、無意識に押し殺してきたある感情を思い出した。それはこの寺に対する、愛憎半ばする複雑な想いだった。
幼い頃から厳格な先代に育てられ、自由というものを知らずにきた私にとって、寺は時として巨大な殻のように感じられた。その殻を破りたい衝動と、破ってはならないという義務感の間で、私は長く懊悩してきた。
もしかすると、この怪異は私自身の内面の亀裂の反映なのかもしれない。
そんな思いが頭をよぎった時、庭の暗がりから微かな物音がした。私たちが身を乗り出して見つめると、池の畔を何かの白い影がゆらりと過ぎていった。人影と言うには小さすぎ、動物と言うには不自然な動きだった。
「あれは…」
と私が呟くのも忘れて、高瀬はすっと立ち上がり、縁側から庭へと降りた。私は慌てて後を追った。
深夜の庭は昼間の幽玄さを失い、生々しい闇に満ちていた。手桶が転がり、樹齢三百年を超える枝垂れ桜が不気味に唸る。私たちが池の周りを探しても、先ほどの白い影は見当たらない。
しかし、池の水面に映った月が、不規則に揺らいでいた。何かが水に入ったのだ。
高瀬が懐中電灯で池を照らすと、水底にゆらめく無数の白い破片が浮かび上がった。それは卵の殻だった。無傷の殻ではなく、細かく砕かれた破片が、月光を浴びて青白く輝いている。それらはどうやら今しがた、池に投げ込まれたらしい。まだ泡が細かく立ち上がっている。
「犯人は、私たちがここにいることを知っていた」
と高瀬が低い声で言った。
「そして、わざわざ証拠を見せつけることで、挑発している」
私は背筋に冷たいものを感じた。池に浮かぶ殻の破片は、何かの儀式のようにも、あるいは嘲りの撒き餌のようにも見えた。
その時、庫裡の方から女の悲鳴が上がった。
私たちが駆け戻ると、台所で当直の雲水が、冷蔵庫の前に崩れ落ちていた。扉は開け放たれ、中から出てきたはずの一パックの卵が、流し台の上でことごとく割られ、黄身と白身が無残に広がっている。
しかも、その中央に、指で書かれたと思しき文字が血のように赤く浮かび上がっていた。それは「還せ」の二字だった。
「何を還せと…」
と雲水が震えながら言う。高瀬は流し台に近づき、指でその赤い物質を少しだけ舐めた。
「トマトケチャップです。混じり気はない」
彼女の表情は一層深刻になった。
「犯行がエスカレートしています。単なる悪戯や祟りと考えている段階ではありません。これは明確な要求です」
私の頭の中で、先代の実弟が金を要求するわめき声が蘇った。だが、それと卵がどうつながるのか。
高瀬は私を見た。
「住職、寺に“卵”のように扱われるべき価値のあるもの、つまり外側は普通だが、中に極めて貴重な“黄身”を隠しているようなものはありませんか」
私は即座に否定した。寺には美術品も少ないし、現金もごくわずかしか置いていない。先代がこっそり隠し財産など持っているとも思えなかった。
しかし、ふとあることを思い出した。先代が遷化する直前、私の手を握りながら、「お前にな…あの…玉子の…中を…」と息も絶え絶えに呟いたことを。その時はせん妄の言葉だと受け流していたが、もしかすると何か意味があったのかもしれない。
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次の日、高瀬は町へ出て、卵の供給元となっている養鶏場や、先代の実弟の工務店を訪ねた。
私は寺に残り、先代の遺品を改めて点検することにした。書斎の整理をしていると、『観心本尊抄』の頁の間から、一枚の古びた写真が落ちてきた。それは若き日の先代と、見知らぬ女性、そして幼子の三人で写ったものだった。背景はこの寺の庭である。
私はその写真を手に、倅子叔母の元へ急いだ。叔母は写真を見て、深くため息をついた。
「とうとう見つけてしまったか。兄さんはこれを墓場まで持っていくつもりだったろうに」
彼女の話によれば、その女性は先代が修行時代に知り合った女性で、一時は還俗して結婚も考えたが、家族の反対などもあり結ばれなかった。その後、女性は他所へ嫁ぎ、子供も産まれたが、その子が実は先代の子かもしれないという噂があった。写真の幼子は、その子供だというのだ。
「その子は今、どうしているのです」
と私は聞いた。叔母は首を振った。
「分からない。ずっと前に消息を絶ったと聞いている。もし生きていれば、もう四十歳くらいにはなっているだろう」
私は閃いた。卵の怪異は、その「かもしれない子供」による、寺への復讐なのか。あるいは、相続権を主張するための前哨戦なのか。
しかし、なぜ卵なのか。その疑問は晴れなかった。
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夕方、高瀬が戻ってきた。彼女の表情は興奮に輝いていた。
「手がかりが見つかりました。養鶏場の主人が言うには、一ヶ月ほど前から、寺の近くで見知らぬ男が卵をまとめて買い付けているらしい。その男の風体は、どうやら庭師の義雄に似ているそうです」
義雄? あの無口な男が? しかし、彼が卵を必要とする理由は?
私たちが彼の小屋を訪ねた時、義雄は不在だった。小屋の中は整然としていたが、隅に置かれたダンボール箱の中から、寺で使っていたのと同じ銘柄の卵の空パックが幾つも見つかった。
さらに、粗末な机の上には、解剖学の書籍と、卵の殻を加工するための細かい工具が並んでいた。
「これは…」
と高瀬が工具を手に取った。
「彼は卵の殻に、極めて細工を施す技術を持っている。殻を割らずに中身を取り出す方法を、実際に研究していたのかもしれない」
その時、私は机の引き出しの中に、一枚の紙切れを見つけた。それは幼稚な字で、「おとうさん、こんにちは」で始まる手紙の下書きだった。差出人の名前はない。だが、文面からは、父親に会いたいという切実な想いが伝わってきた。
私はその手紙を握りしめ、全てが繋がったような気がした。義雄は、あの写真の幼子なのか? 彼は父である先代に会うために、何らかのメッセージを送ろうとしていたのか?
しかし、なぜこんなに回りくどい方法を?
私たちが小屋を出ようとした時、陰からゆっくりと義雄が現れた。彼の手には、一つの卵が握られていた。
「見つかってしまいましたか」
と彼は枯れた声で言った。目には深い諦めの色が浮かんでいる。
「あなたが先代のご子息なのですか」
と私は尋ねた。義雄はゆっくりと首を振った。
「違います。私は…ただの庭師です」
そして、彼は驚くべき告白を始めた。
彼には、知的障害を抱えた娘がいた。その娘は、二十年前にこの寺で開かれた写生大会に参加し、そこで先代に大変可愛がられた。先代は彼女に卵の出汁巻きをよく振る舞い、「お前の絵は、玉子のように純粋じゃ」と褒めていたという。
しかしその娘は、五年前に病気で他界した。
義雄は、娘が生前に「お寺の卵は特別な味がする」と繰り返し言っていたことを忘れられなかった。そして、先代が亡くなった後、彼は寺の卵に、何か娘の思い出が封じ込められているような気がしてならなかった。
卵の中身を抜き取り、殻だけを残す行為は、娘の魂を解放するための、彼なりの供養の儀式だったというのだ。
「でも…最近は、違うんです」
と義雄の声が震えた。
「最初はそれだけだった。でも、いつの間にか…違う誰かが、私の真似をしている気がするんです」
彼の目は恐怖に歪んでいた。
「私が隠しておいた卵の殻が、いつの間にか別の場所に移動していたり、私の知らない文字が書かれていたり…。私じゃない、もう一人、誰かがいるんです!」
その言葉で、私の全身が冷水を浴びせられたような感覚に襲われた。
義雄は確かに一部の怪異に関わっていたが、全ての犯行者ではなかった。池に殻を投げ込んだのも、ケチャップで文字を書いたのも、彼ではない。
ならば、真の犯人は別にいる。そしてその人物は、義雄の行動を利用し、あるいは煽りながら、自身の目的を達成しようとしている。
高瀬が鋭く義雄を見つめた。
「あなたは、誰か他の人物を怪しいと思ったことはありませんか。寺の関係者で、卵や先代に強い執着を持つ人物は」
義雄はうつむいたまま、かすかに首を振った。しかし、その仕草には何か隠しているような気がした。
その時、庫裡の方から再び叫び声が上がった。今度は倅子叔母の声だ。
私たちが駆けつけると、叔母は先代の位牌の前に立ち尽くし、震える指をさし伸ばしていた。位牌の前の供え物用の器に、一つの卵が供えられていた。それは殻が真っ黒に塗られ、その上に金泥で「中身は私のもの」と書かれている。不気味なオブジェのように光っていた。
「これは…誰が…」
と叔母が嗚咽を漏らす。高瀬がそっと卵を手に取り、軽く振った。中からカラカラと音がした。
彼女は慎重に殻にヒビを入れ、二つに割った。中から出てきたのは、黄身でも白身でもなく、小さな巻かれた紙片と、古い鍵だった。紙片には、「蔵の地下」とだけ記されていた。
私はその鍵を見て、はっとした。これは、寺の宝物蔵と呼ばれる、明治時代に建てられた土蔵の鍵に似ている。しかし、その土蔵は長年使われておらず、鍵も行方不明だった。
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私たちは懐中電灯を手に、土蔵へと急いだ。夕闇が迫り、杉木立がざわめく。土蔵は寺の最も奥まった場所にあり、蔦に覆われていた。
鍵は錠前にぴたりと合った。重い扉が軋みを上げて開く。中は埃っぽく、古い経典や道具が雑然と積まれている。床には大きな石の蓋が嵌め込まれており、それにも鍵穴があった。
「地下へ続くのか」
と私が呟く。高瀬がうなずき、鍵を差し込む。蓋は重いが、滑るように開いた。暗い階段が地下へと続いている。
私たちは息を殺して降りていった。地下は思ったより広く、コンクリートで固められた部屋になっていた。そしてその中心に、小さな金庫が置かれている。
金庫も同じ鍵で開いた。
中から現れたのは、古い手紙の束と、銀行の通帳、そして一つの桐箱だった。手紙は、あの写真の女性から先代へ送られたものだった。文面から、二人の深い関係と、別れの悲しみがにじみ出ている。
通帳には、かなりの金額が定期的に入金され、そして引き出されていた。宛名は、女性の名前だった。
最後に桐箱を開けると、中には幼い子供の乳歯と、一綴りの絵が入っていた。絵は卵を描いたものが多く、どれも拙いが温かみのあるタッチだった。
私は全てを理解した。
先代は、自分の子供とその母親を、密かに支え続けていたのだ。そのための資金を、この金庫に隠していた。そして、その存在を、彼なりの言葉で私に伝えようとした。
「玉子の中」とは、この地下金庫のことだったのかもしれない。あるいは、外からは見えない、彼の内なる愛情の比喻だったのか。
しかし、なぜ今、この秘密が暴かれようとしているのか。
その答えは、私たちが地下から上がった時、目の前にいた人物によってもたらされた。
倅子叔母だった。
彼女は鋭いナイフを手に、冷たい笑みを浮かべて立っていた。
「よくぞ見つけてくれましたね、賢明な住職さん。そしてお綺麗な探偵さん」
叔母の目は、常日頃の温和さを失い、貪欲な光を宿していた。
「私は長年、兄が何か隠していると疑っていました。あの女と子供に、寺の金を流しているに違いないと。でも、兄は死ぬまで口を割らなかった。仕方なく、私は自分で探すことにしたのよ」
叔母の計画は巧妙だった。
まず、義雄が娘への想いから卵を弄んでいることを知り、彼の行為を利用して寺中に怪異の噂を流した。それによって人々の注意を卵に向けさせ、同時に私を動揺させようとした。
次に、高瀬教授を招くことで、外部の目を借りて寺の秘密を暴かせようと考えたのだ。池の殻も、ケチャップの文字も、黒い卵の罠も、全て叔母の仕業だった。彼女は、私や高瀬が動くままに、この金庫を発見させたかった。
「ありがとうございます。これで、兄の隠し財産は全て没収できます。寺のものは、全てこの寺に残るべきですからね」
叔母のナイフが光った。私は彼女に言った。
「叔母さん、それは違います。先代は個人の責任で、ご自身の子供を支えていた。寺の金ではない」
しかし、叔母は聞く耳を持たなかった。
「そういうことにするかしないかは、これからの話よ」
その時、高瀬が静かに口を開いた。
「倅子さん、あなたの計画には一つ重大な誤算があります」
叔母がきっと彼女を見る。
「それは、私が警察に随時状況を報告していることです。今、ちょうど到着する頃だと思います」
その言葉に、叔母の顔が歪んだ。遠くでサイレンの音が聞こえ始めた。彼女は一瞬躊躇し、そしてナイフを投げ捨て、崩れ落ちるように座り込んだ。
「ちっ、そうだったか…」
と呟く声は、急速に力を失っていった。
---
警察が叔母を連行した後、私は高瀬と二人、再び庭に立った。月は雲間から顔を出し、池の水面を銀色に染めていた。
「卵の中身が何だったか、ようやく分かりました」
と私は言った。
「それは、先代の秘めた愛と、その愛ゆえの罪悪感でした。叔母はそれを“黄身”として抜き取り、自分のものにしたかった」
高瀬はうなずいた。
「そして、義雄さんにとっての卵は、娘への思い出という“白身”だった。同じ卵でも、人によってその中身の意味は変わるのです」
彼女は私を見つめた。
「住職さんにとって、この寺は卵のようなものですか。殻は伝統やしきたりで、中には無限の可能性が詰まっていると」
私は考え込んだ。この寺は確かに私を育んだ殻だが、その中身は私自身が創り上げていくものなのかもしれない。先代はその“中身”を、自分の愛する人たちに分け与えていた。叔母はそれを奪おうとした。義雄はそれを解放しようとした。
そして私は、これからその中身をどうしていくべきか。答えはすぐには出ない。ただ一つ言えるのは、卵が単なる食材ではなく、人間の心の深層を映し出す鏡となり得るということだ。
事件は解決したが、寺にはまだ卵は戻ってこない。いや、戻ってくる必要はないのかもしれない。これからは、殻にこだわらず、中身そのものを慈しんで生きていけばいい。
高瀬教授は翌朝、町へ帰っていった。彼女は去り際に、「また面白い事件があったら、連絡ください」と言って微笑んだ。私は深々と礼を述べた。
彼女のおかげで、寺は平穏を取り戻した。しかしその平穏は、以前のものとは少し違っていた。何かが取り返しのつかないほどに変化し、それでもなお、この場所は廻り続けている。
まるで、殻を破られた卵が、新しい調理法へと生まれ変わるように。
月が再び雲に隠れ、闇が深まる。遠くで鶏の声が聞こえる。
あの卵たちは、もう二度とここには戻らないだろう。それでいいのだ。
すべての始まりは、いつか終わりを迎える。ただ、その終わりがまた新たな始まりとなることを願って。
私はそっと目を閉じ、深い呼吸をした。庫裡の方から、雲水たちが朝の勤行の準備をする気配が伝わってくる。
あの割れた卵の殻は、もうどこにもない。きれいに掃除され、跡形もなく消えている。
それでいい。全ては元の場所に還っていく。
ただ、心の中に残ったひび割れだけが、これからの在り方を問いかけてやまない。
沈黙が庭を満たし、やがて朝が来る
卵の中の沈黙 ラズベリーパイ大好きおじさん @Rikka_nozomi
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