【10】

「あれは、確か去年の夏前くらいの出来事でした」


 その言葉をきっかけに、僕もあの事件の顛末を、ゆっくりと思い出していた。


 都内のどこにでもありそうな、少し古い四階建てのマンション。四〇三号室には一人暮らしの老婦人が住んでいた。用心深い人で、夜になると玄関の鍵とチェーンを何度も確かめるのが習慣だったという。


 遅い時間に帰る住人は、みんな知っていた。廊下の向こうから毎晩決まった時間に、


 ガチャ……ガチャ……。


 と小さな金属音がする。「ああ、また四〇三のおばあさんだ」と、それは当たり前の日常だった。


 ――ある日、そのおばあさんが亡くなった。部屋は空き室になり、荷物も片づけられた。それなのに夜になると、前と同じ時間に、同じ場所から、同じ音が鳴り始めたのだ。


 ガチャ……ガチャ……。


 四〇三号室は無人で、その後も誰も住んでいない。管理人が確かめても中には誰もおらず、原因もわからない。住人は口を揃えた。『幽霊に違いない』と。それで、大家が伝手をつかって、折原さんに連絡してきたのだ。


「最初はよくある音の伝播だと思いました。上階や隣室の生活音が壁や床を伝って、別の場所から聞こえる。心霊現象だと誤解されやすいパターンです」


 僕たちは現場へ行き、昼のうちに建付けや配管、壁の構造を確認した。周囲の間取りも見せてもらったが、致命的な歪みもなく、配管経由で音が伝わる様子もない。


「ただ、みんな言うんです。『あれは、生きていた頃から毎晩聞いていた、あのおばあさんが鍵を確認する音だ』って。そこだけが妙に一致していた」


 だから、問題の時間帯に張り込んだ。深夜近く、四〇三号室の前に、僕と折原さんと管理人さんが並んで立つ。事前に室内の無人を確認し、玄関ドアはきっちり閉めた。チェーンは外したまま、鍵は締めてある。


 沈黙。湿った廊下に古い建物の匂いが混じる。やがて――。


 ガチャ……ガチャ……。


 背中に冷たいものが走った。あの独特の金属音が、閉じた玄関ドアのすぐ向こうから、はっきりと鳴っていた。


「あれを聞いて『他の部屋の音です』と言い張るのは無理でした」


「じゃあ、中に幽霊が……?」


 遥香さんの指に力が入る。


「いいえ。そのときの結論は、“中に何かいる”というより、“ドアそのものが音を抱え込んでいる”というものでした」


「……音を、抱え込む?」


「少し変な言い方ですがね」


 折原さんは苦笑のような、でも真面目な表情で続けた。


「民俗学なんかで、“場所が出来事を覚える”っていう考え方があるんです。同じ行動や感情が、その場所に層みたいに積もっていく、というイメージです」


「例えば、怪談には毎晩同じ時間、同じ場所に立つ女、みたいな話があるでしょう? あれも冷静に見れば、“同じ行動が、同じ場所で、同じ時間に、何年も繰り返された場所”とも言えるんです」


 僕も補足するように口を挟んだ。折原さんは指先で宙に小さな円を描く。


「四〇三号室のおばあさんもそうだった。何十年も、毎晩決まった時間に、同じ玄関で鍵とチェーンを確かめ続けた。その習慣が、そのドア一式に入力され続けていた」


「入力、ですか」


「もっとシンプルに言うなら、“ドアがその音を覚えた”。物理の言葉で完璧に説明できるとは思いませんが、何かを“受け止め続けた側”に現象が残る話は、珍しくないんです」


 まだ納得しきれていない様子の遥香さんに、僕も言葉を継いだ。


「そこで、ドアや枠のあちこちに接触マイクを貼って録音しました。玄関まわりの金属部分だけでなく、壁や床、天井にも付けて、どこが一番はっきり音を拾うのかを調べたんです」


 頭の中であの音の波形をなぞりながら、話を続ける。


「その結果、壁や床、あるいは上階からの振動と思われる波形はほとんど確認できませんでした。建物全体がきしんでいるというより、あの古いドア一式が“そこで鳴っている”と考えるほうが自然だったわけです」


 ふいに、部屋の隅で空気清浄機が「ピッ」と短く鳴った。会話がすっと途切れ、その隙間に、遥香さんが小さく息を吸い込む。


「それでどうしたんですか?」


 問いかけには、好奇心よりも“自分の場合はどうなるのか”を探る色が濃かった。


「やったことは単純です。玄関ドアをごっそり交換してもらいました」


「交換……だけ?」


「はい。ドア本体と枠、錠前、チェーンごと全部新しいものに。新しい扉はダブルロックにして、チェーンは付けない設計にしました。古いドアと金物は外に持ち出して処分」


 折原さんは肩をすくめた。


「その晩から、音は一度も鳴っていません。住民の苦情も、その後はゼロですよ。原因を物理的に全部説明しろと言われたら、できない部分は残ります。でも、現象としてはそれで終わった。心霊現象なんて、大体その程度のものです」


 肩透かしを食らったような沈黙が、少しのあいだ流れる。僕は困惑する遥香さんの横顔を見ながら、心の中で言葉を足す。


 ――理屈は全部わからなくても、“困っている現象”を止められれば、それでいい。幽霊かもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも、眠れない夜が続いて、生活が壊れかけているなら、求められているのは「完璧な理屈」じゃなく、「今夜ちゃんと眠れるようにする方法」だ。――


 それが、以前折原さんが語ってくれた持論だった。遥香さんはまだ何か言いたげな顔をしていたが、無理に飲み込んだのだろう。それきり、追加の質問はしてこなかった。


 その後、事務的な話も一段落し、折原さんは小さく息をつく。


「では、こちらはこちらで動きましょう。またご連絡します」


 僕らは荷物をまとめ、遥香さんに軽く会釈して部屋を出た。廊下に出ると、外の空気が嘘みたいに薄く感じる。エレベーターのボタンを押し、扉が閉まるまでのあいだ、遥香さんは玄関先に立ったまま、何度も小さく頭を下げていた。


「どう思う?」


 夕暮れの目黒川沿いを歩きながら、折原さんがふいにこちらへ顔を向けた。


「正直、最初は信じられませんでした。でも、遥香さんの追い詰められ方を見ると……あの部屋、何か起きてる気はします」


「“気がする”程度だな。まだ、あの人の妄想の線も捨てきれん」


 折原さんはそういうことを平然と言う。霊視探偵を名乗っているくせに、心霊現象の存在を簡単には認めない。現実的な説明を一つずつ潰して、それでも残ったものだけを“異常”として扱う人なのだ。


「さて、篠田。次の動き、役割分担しようか」


 口元だけでにやりと嗤うのを見て、嫌な予感が背中を走った。


「私は、部屋の映像をもう少し解析する。それから、バルコニーで拾った物質の解析もだ。……で、篠田はスミオさんの怪談の情報収集と、例のユーチューバーの捜索を、頼む」


「配分、おかしくないですか? 僕のほう、やること多いですよ」


「仕方ないだろう。解析は私が頼まないと動かん。それに——お前には、あの映像を見せられない」


「……」


 一瞬、遥香さんのバスタオル姿が脳裏をよぎって、顔が熱くなる。折原さんは何も言わない。言わないくせに、全部わかっているみたいな顔だけする。


「いいか。スミオさんの怪談の全体像が掴めれば、この件は一気に進む。原典を見つけるか、語り手のユーチューバーに辿り着く。それが最優先だ。よろしく頼むぞ」


 やれやれ、と心の中で肩を落とす。僕はポケットからスマホを取り出し、"ある人物"の番号を押した。


 プルルル……。


 コール音だけが耳に薄く響き続け、やがて途切れる。


「出ろよ……」


 独り言が、川沿いの風にさらわれた。こういうときは何度かけ直しても無駄だ。向こうが気づいて、折り返してくるのを待つしかない。


 通話を切り、スマホをポケットへ戻す。目黒川の水面は夕焼けを引きずって、ゆっくり黒く沈んでいく。僕らは並んだまま、足音だけを連れて歩き続けた。

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