【8】

 遥香さんに案内された部屋は、1LDKらしき間取りだった。玄関を入ると、ごく普通の一人暮らしの部屋――と言いたいところだが、リビングの床に広がる赤い物体群がまず目に入る。


 赤いクッション、赤いパーカー、赤いマグカップ、赤いブランケット、赤い何かのパッケージ。赤の洪水だ。


「ずいぶん派手にやりましたね」


「ついこの間までは、もっと整理整頓していたんですけどね……」


 折原さんがこぼすと、遥香さんはバツが悪そうに笑った。


 部屋の奥へ入った瞬間、ツンと鼻を刺す匂いがする。少し考えて、それが魚を焼きすぎて焦がしたときの、あの匂いに近いと気づいた。指摘するのは失礼だと思い、口には出さなかったが。


「じゃ、まず映像を見せてもらいましょう。篠田、コード頼む」


「はい」


 僕はテレビ横のHDMIや延長コードを引っ張り出して、遥香さんのパソコンに接続する。画面が切り替わり、固定カメラの映像が立ち上がった。


 日付と時間のテロップ。三脚に載せたカメラがリビング全体を引きで映している。奥に寝室の扉、手前にソファ、その横に玄関。


「仕事から帰ってきたら、まずこのカメラをつけるので、部屋にいる間はすべて映像に残っています」


 遥香さんが小さく補足する。


 しばらく何も起きない。時計のカチカチ音だけが妙に耳につく。早送りで眺めていると、画面の端で動きがあった。


 ソファに座っていた遥香さんが、びくっと体を起こす。周囲を見回し、寝室のほうへおそるおそる顔を向ける。


 ――その先には、何もない。少なくとも映像には。


 けれど彼女は、何かを凝視したまま数秒固まり、恐る恐る立ち上がって寝室の入り口に近づいていく。


「何かが見えたのですか?」


「はい……寝室の入り口のところに、あの影が立っている気がして」


 折原さんは一時停止し、ドア枠のあたりをじっと見つめた。僕も目を凝らすが、やはりそれらしいものは映っていない。ただ、何もない闇を見据える遥香さんの緊張だけが、画面越しでも伝わってきて不気味だった。


「で、問題の窓が……こっちの動画です」


 遥香さんが画面を操作すると、今度は寝室のカメラ映像に切り替わった。ベッド横の掃き出し窓から入口の扉まで、広角に映るように撮影されている。


 やがて、先ほど寝室の前までやってきた遥香さんが別のアングルから現れた。中を確認して、そしてゆっくりと入ってくる。


「止めてください」


 折原さんに言われ、再生を止める。巻き戻してコマ送り。


 遥香さんが現れて数秒後、窓のクレセント錠付近がかすかに動き、数センチだけ開く。誰の手も映っていない。カーテンがふわりと揺れて、部屋の空気が変わる。


「……なるほど。気持ち悪いですね、これは」


 思わず本音が漏れた。


「他の日も、ほとんど同じです。影は映らないけど、窓だけが……」


 遥香さんの声が震える。折原さんは黙って映像を進めた。


 別の日のリビング。最初は誰もいなかったが、すぐに遥香さんが慌てた様子で駆け込んできた。バスタオルを身体に巻いただけの、ほとんど湯上がりそのままの格好だ。僕は心臓が跳ね上がり、反射的に視線を逸らした。


「ここから先は、私だけで見ます」


 折原さんがすかさずテレビの向きを変え、こちらからは画面が見えないようにする。僕は先ほど見た光景を頭から締め出そうと必死になるが、なかなか鼓動はおさまってくれなかった。


 折原さんはそれから何度か巻き戻しと早送りを繰り返したが、何かが「いる」と言い切れるほど、はっきりしたものは映っていなかったようだ。


「……映像はこんなところですかね。十分参考になりました」


 折原さんはパソコンを閉じ、ぱん、と手を叩く。


「じゃあ次は、少しお部屋を触らせてください。篠田、あれ出せるか?」


「了解ですよっと」


 僕は担いできたリュックサックを開けると、中にある機材を取り出した。小型カメラが二台、しかも一台はサーマルスコープ付きだ。それから、騒音測定器に、赤外線センサー。電磁界(EMF)メーターまである。心霊現象を調査するときの一式だ。


「遥香さんも既に色々試されているようですが、より色んな観点から測定をさせていただきます。単純に数が多い方が、現象を捕捉できる確率も上がりますし」


 折原さんが解説しているあいだ、僕はせっせと機材を組み立てていく。普段はうちのクローゼットの半分を占拠している連中だ。こうして出番が来たことが、内心ちょっと嬉しい。


「できましたよ」


「助かる。ああ、そうだ。窓の施錠ストッパーなんて、入ってないよな?」


「え、ないですよ? 何に使うんです?」


 僕が目を丸くすると、折原さんは窓の方に歩いて、そのフレームにあるクレセント錠――小さなレバー式の鍵――を指先でつまんで軽く揺らしてみせる。


「例の影は、なぜか毎回、窓を開けて外へ出ていくだろう? カメラにも映ってる。つまり少なくとも、その現象は現実に起きてるってことだ。だからそれを、物理的に止めてやろうと思ってな」


「それって……影をこの部屋に閉じ込めるってことですか?」


 思わず口にした僕の言葉に、遥香さんは不安そうに声を挟む。


「それはちょっと……。確かに窓が開くのは止められるかもしれませんけれど、あんまりやりたくはないですね」


 彼女の気持ちはよくわかる。恐ろしい影が、もしこの部屋に留まり続けることになったら、不安は今よりずっと大きくなるはずだ。折原さんも「では、これはもっと差し迫ったときの手段にしましょう」と言って、手を引っ込めた。


 僕も視線を落とし、用意してきた機材に手を伸ばす——その途中で、ふと違和感が胸をかすめて動きを止めた。何だろう。さっきの会話のどこかに引っかかりがあった。けれど、それが何なのか、まだ言葉にならない。


「では、次にお部屋を少し拝見させていただきますよ」


 僕らは手分けして、遥香さんの部屋を隅々まで調べた。家具を少し動かして裏を覗いたり、天井の点検口を開けて中を確認したりする。心霊調査というより、不動産の点検に近い作業だ。だが油断していると、思わぬ場所に仰々しいお札が貼ってある、なんてこともある。


 けれど、遥香さんの部屋に限っては、少し埃っぽいくらいで、怪しい点は見当たらなかった。


「あとは……バルコニーくらいですかね?」


 額に滲んだ汗を拭きながら言うと、折原さんも頷いた。


 掃き出し窓を開けているあいだに、僕は玄関へ戻って靴を取ってくる。折原さんが先に外へ出て、くるりと一度、あたりを見回した。


「篠田、こっち」


「はいはい」


 僕も靴を放り、足を突っ込むと、サッシのレールをまたいでバルコニーに出た。


 室内のぬるい空気から、少し冷えた乾いた風へ。コンクリートの硬さ、手すりの向こうには隣のマンションの外壁、薄いグレーのタイルと雨だれの筋。都内のよくあるバルコニー、のはずなのに。


 一歩目で、頭のどこかがカチ、と切り替わる感覚があった。目に見える景色とは別のレイヤーが立ち上がる。


 意識していないはずの頭の空白に、ぽつん、と何かが落ちた。言葉とも形ともつかないそれは、脳内を漂って思考を阻害する。


 やがて、その輪郭がじわじわとにじみ、そこにごく薄い“赤”が滲んで広がっていく。真水のグラスにインクを一滴落としたときみたいに、ゆっくり、でも確実に空間を染めていくイメージ。


 色だけじゃない。赤には、鉄っぽい匂いの記憶がくっついてくる。血の匂いと言い切れないが、冷たい金属を舐めたときの舌の奥に残る感じに近かった。


 ――ああ、また、これだ。


「……篠田?」


 折原さんが振り返り、僕を見た。気づけば、僕は一歩踏み出した姿勢のまま固まっている。喉が乾いて声が出ない。


「おい、どうした。そこでフリーズされると、こっちが怖いんだけど」


 肩を小突かれて、ようやく体が戻る。指先に血が戻ってくる感覚。


「あ、いえ……ちょっと、眩暈がしただけで」


 そう言いながら、僕の視線は素早く周囲をなぞっていた。あるはずだ、何かが。ふと足元に目を落としたとき、バルコニーには似つかわしくないものが転がっているのに気づく。


「これ、何でしょうか?」


 僕はそれをつまみ上げ、みんなに見えるよう高く掲げた。

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