【7】
駅の改札を抜けると、すぐ目の前に広がるのは瀟洒な街並みだった。頭上には高架が走り、その下には洗練されたカフェや小さなショップが肩を寄せ合うように並んでいる。電車が通り抜けるたび、低い響きが街に沁み込み、まるでこの街全体のリズムを刻んでいるみたいだった。
中目黒は、都会的な刺激と住みやすさが絶妙に混ざり合った街だ。おしゃれなのにどこか生活の温度も残っていて、そのバランスの良さが人を惹きつけている。だからいつも人気は高いけれど、ここで本当に暮らせるのはごく一部だけだ。家賃の相場は、東京のなかでもかなり高い部類に入る。
そんな街に住んでいるくらいだから、依頼人はきっとすごいお金持ちか、あるいはモデルみたいに洗練された人なんだろう――そんな先入観を抱いていた。
だけど、駅から少し歩いた待ち合わせ場所のファミレス。そのボックス席で、一人座って会釈してきた女性を見て、僕は思わず目を見開いた。
女性は、顔立ちだけを見れば整っていて、美人と呼んでも差し支えないはずだった。すっと通った鼻筋に、形のいい唇。やや切れ長の目元は何もしていなくても印象的で、本来なら座っているだけで周囲の空気が少し華やぐタイプだろう。
けれど、今目の前にいる女性は、その印象を打ち消すように、頬が不自然にこけ、目の下には濃い影のようなクマが沈んでいる。化粧っ気もなく、ただ疲れだけが表情に刻まれていた。
そして、僕を本当に驚かせたのはその服装だった。無地の赤いTシャツに、赤いジーンズ。頭には赤い髪留めがついていて、足元には鮮やかすぎる赤のスニーカー。まるで赤い鎧をまとっているかのように、彼女は頭の先からつま先まで赤一色に包まれていた。
「大西遥香さんですね。はじめまして、霊視探偵の折原です。こちらは助手の篠田」
そう名乗りながら、折原さんが迷いのない手つきで名刺を差し出した。僕も慌てて鞄の中をまさぐる。うっかり本業の名刺を出しかけて、寸前で持ち替えたのは、自分でも少し笑ってしまうような一枚だった。
無駄に厚手の高級紙に、「霊視探偵助手 篠田佑助」とだけ、やけに立派なフォントで印字されている。これはこの奇妙な探偵業を始める時に、折原さんが勢いで作ったものだった。僕は名乗るだけでも気恥ずかしいのに、この人はどうしてこうも平然としていられるのだろうか。
大西遥香さんは、机に並べられた二枚の名刺をしばらく見つめ、それから小さく肩を揺らしてくすりと笑った。どこか戸惑いを含んだ笑みで、すぐに眉をわずかに寄せる。
「……ごめんなさい。本当にいるんだなって、つい思ってしまって。でも、幽霊がいるなら、こういうお仕事の方がいるのも当然ですよね」
そう言って視線を落とす彼女は、まるで自分に言い聞かせているように見えた。その表情の影に、張りつめたものが覗く。
折原さんは、自然な仕草で机の上の折り畳みメニューに手を伸ばした。
「何か飲まれますか? コーヒーでも……ああ、ドリンクバーなんですね。篠田、頼むよ。私もコーヒーで」
当たり前のように言われ、僕は「はい」と立ち上がる。熱々のブラックを三つ運ぶのはちょっとした罰ゲームみたいで、こぼさないように慎重に歩くうちに指先がじんじん熱を持った。
戻ってみると、二人の間にはすでに柔らかな空気が流れていた。
「ああ、あの会社にお勤めなんですね。さすがだ。私も探偵業を始める前は会社勤めでしたが、その頃は御社に随分お世話になりまして。ディレクターの窪田さんはお元気ですか?」
「えっ、窪田をご存知なんですか? いやあ、それは色々とご迷惑を……。彼、うちでも有名な変わり者ですから。でも元気にはしていますよ」
「とんでもない。窪田さんは紛れもなく天才でしたから、私も何度も助けられました」
そう言って笑い合う二人の姿は、もう初対面とは思えなかった。会社員時代からの折原さんの特殊能力だ。相手の懐にあっという間に入り込み、気づけば会話の中心に立ってしまう。
僕は三つのカップをテーブルに置きながら、心の中で小さくため息をついた。僕はいまだに初対面の人と話すのは苦手なのに、隣にこんなコミュ力お化けがいるせいで、自分のしゃべりのポンコツ具合だけがいやに際立ってしまうのだ。
世間話がひと段落したところで、テーブルを満たしていた和やかな雰囲気がすっと引いていく。コーヒーの湯気だけが名残のように立ちのぼり、代わりに妙な静けさが落ちた。遥香さんの笑っていた口元が静かに閉じられ、頬に落ちる影が濃くなる。
「……それで、本題なんですけれど」
その声は、さっきまでの柔らかさを失っていた。言葉に重さが混じり、僕は思わず背筋を正す。折原さんもにこやかな表情をすっと引き締めて、ゆっくりとカップをソーサーに戻した。
「ええ、伺いましょう。あなたをここまで追い込んでいるものについて」
「はい……」
彼女は水をひと口飲み、息を整えてから話し始めた。
新宿の喫茶店で、オカルト系ユーチューバーが話していた「願いを叶えてくれるが、赤いもので礼をしないと黒い影に取り憑かれる“スミオさん”」の怪談を聞いたこと。
その夜から、部屋に黒い影が現れ、ほとんど眠れない日が続いていること。
赤いものを集めて身につけ、LINEで何度も「帰ってください」と送っても、影はいなくならなかったこと。
カメラや病院にも頼ったが原因はわからず、今も毎晩その影に怯えていること。
言葉はところどころ途切れ、そのたびに折原さんが「大丈夫ですよ、ゆっくりで」と声を挟み、どうにか一通りの話が出そろった。
「なるほど。ありがとうございます。全体像はつかめました」
折原さんは軽く頷き、手帳を開いてメモをとり始める。
「いくつかだけ、確認させてください。まず、“スミオさん”に願い事を送ったことは?」
「……ないです。よくできた怪談だなとは思いましたけど、正直その場では笑い話で。試してみようとすら思いませんでした。そういうの、信じないタイプだったので」
「つまり、お願いはしていないのに、影だけが現れ続けていると」
「はい。それが、どうしても納得できなくて……」
遥香さんは視線を落とし、指先をぎゅっと握る。
「願いを叶えてもらった人が代償を払うならまだわかるんですけど。私は何もしてないのに、ただ話を聞いただけで、いきなりこうなって……。理不尽すぎるというか」
「……そうですよね。何もしていないのにそんな目に遭うのは、相当こたえたはずです」
折原さんはペンを持つ手をそっと止め、少しだけ声を落としてそう言った。
「窓が勝手に開くのは決まった窓ですか?」
「はい。寝室とリビングの、バルコニーに出る窓です。鍵を閉めたはずなのに、気づくと少しだけ開いてて……。カーテンが揺れて、その向こうに誰かいる気がして」
「鍵は、よくあるクレセント錠ですね?」
「たぶん。築十年くらいのマンションなので、そこまで古くはないと思います」
そう言って、彼女は身震いを誤魔化すように自分の腕をさすった。つられて僕も視線を落とすと、自分の腕にも細かい鳥肌がびっしりと浮かんでいるのに気づく。折原さんは「ふむ」とだけ言って、静かに頷いた。
「ビデオカメラで撮影された映像は、今日お持ちですか?」
「……いえ、ほとんど家のPCに入っています。容量が大きすぎて、スマホには少ししか移せなくて……あ、すみません、充電が」
遥香さんは気まずそうに笑いながら、鞄の中をごそごそと探り、真っ赤なモバイルバッテリーを取り出した。コードを伸ばそうとする手を、折原さんがそっと制する。
「大丈夫ですよ。詳しい映像は、後ほど拝見しますから」
そう言ってから、手帳に視線を戻す。
「影は映らなかった。でも窓が開くところだけは映っていた、と」
「……はい。誰も触ってないのに、少しずつ……。何度見ても気味が悪くて」
「わかりました」
そこでようやくペンを置き、折原さんは背もたれに軽くもたれる。僕はというと、話を聞いているあいだじゅう、胃のあたりがずっと重くて仕方がなかった。
聞いた怪談と、彼女の身に起きている出来事は、確かにゆるくつながっているように見える。けれど、彼女はただ隣の席の会話を聞いただけだ。一体何が彼女をここまで追い詰めるきっかけになったのか、僕にはまだ見当もつかなかった。
「……どうなんでしょう、私」
遥香さんが、おそるおそる口を開いた。
「やっぱり、どこかおかしくなっちゃったんでしょうか。それとも、本当に何か……いるのか……」
最後の言葉は、ほとんど聞き取れない声だった。
「遥香さん」
折原さんは、少しだけ柔らかい口調になった。
「今の段階で、"幽霊です"とも“全部あなたの勘違いです”とも言えません。ただ、一つだけ言えるのは――あなたがおかしいわけじゃない、ということです」
「……え?」
「幻覚だろうと、心霊現象だろうと、偶然だろうと。あなたは実際に“見て”、怖い思いをしている。それは事実です。それを『気のせいだから忘れましょう』で片づけるのは、乱暴でしょう?」
遥香さんの目に、じわっと涙が浮かぶ。
「それが何なのか。幽霊なのか、心の反応なのか、別の原因なのか。それを調べるのが――」
ちらっとこちらを見る。
「私と、この篠田の仕事です」
不意打ちで名前を呼ばれて、背筋がビクッと反応する。遥香さんが縋るような目でこちらを見るのが気まずくて、カップの底に残ったコーヒーの輪を眺めるふりをした。要所要所でちゃっかり巻き込んでくるの、本当にやめてほしい。
「ですから、一度ご自宅を拝見させてください。間取り、窓、周りの建物。全部見てから判断しましょう」
「えっ……来てくれるんですか?」
「もちろん。今日はそのために来たのですから」
遥香さんはしばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいた。
「お願いします……。もう、自分ひとりじゃどうにもできなくて。もし、何でもないってわかるだけでも、少しは楽になれる気がするので」
「もちろんです。それでは早速、伺いましょう」
折原さんは、ごく自然な調子でそう言って、口元に柔らかな笑みを浮かべた。その横顔を見ながら、僕は心の中でそっとため息をつく。
貴重な休日は、どうやら“少し”どころじゃなく、まるごと持っていかれそうだった。
それでもこのときの僕は、まだどこかで高を括っていたのだと思う。せいぜい面倒が増える程度だろう、と。
これから始まることが、想像もしない恐ろしい事件に繋がっていると知るのは――もう少し先の話だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます