第二幕 助手
【6】
「弱り目に祟り目」とはよく言うけれど、今日の僕はまさしくその真っ只中にいた。
朝から外回りに出ていた僕は、最初の訪問先で早速つまづいた。約束した担当者が急用で不在だと言われ、代わりに出てきた若い社員には、完全にこちらを見下した態度のまま、「検討します」の一言で追い返された。
午後のアポもキャンセルになり、仕方なく行きつけの喫茶店にでも入ろうとしたが、今日に限って臨時休業だった。
渋々、公園でコンビニのおにぎりを食べ始めたところ、目の前にいたカラスが急に羽ばたき、手元を狙ってきた。慌てて身を引いた僕は、足元の水たまりに派手に片足を突っ込み、ズボンの裾まで泥まみれだ。
「何なんだよ、今日は…」
汚れたスーツを近くの水道で洗い流していると、平日の昼から何をやっているんだと惨めな気持ちになる。
営業職というのは道化のようなものだ。どれだけ資料を作り込んでも、契約までこぎ着けなければ全てが無駄骨に終わる。ましてや、先方のご機嫌を損ねたわけでもないのに、間の悪いキャンセルや冷たい仕打ちを受けると、努力が報われない虚しさが一気にのしかかる。
だが、このままオフィスに戻って愚痴をこぼしても状況は好転しない。むしろ「ああ、また今日も何も手応えがないまま終わってしまった」という事実を思い知らされるだけだ。
すっかり気持ちが萎えた僕の足は、会社ではなく、自然と"ある場所"へ向かっていた。
電車に乗って文京区の駅で降り、冗談みたいな急勾配の坂を登っていく。道のわきに並ぶ民家の軒先からは、すっかり花の落ちた桜の枝が、葉だけを茂らせてこちらへ伸びていた。
そういえば、今年は花見をしていなかった。歩きながら天を仰ぐと、色が濃くなり始めた緑葉の合間に、雲一つない青空が広がっていることに気がつく。自分はこんなについてないのに、世界はなんと長閑なのだろう。深くついたため息を、通りを抜けるつむじ風がかき消していった。
坂を登りきると、街並みが一変する。急に大きな区画の一戸建てが増え始め、それぞれに立派な門や塀が誂えてある。ここは都内でも有数の高級住宅街なのだ。昔はどこぞの大名の藩邸があったらしく、近くには見事な日本庭園もある。荘厳なファサードの豪邸たちの合間を抜けていくと、その突き当りに見えてくるのが目的地、「折原不動産」だ。
その建物は御屋敷街にはそぐわない、三階建てのおんぼろビルだった。時代を感じさせる外壁に、たくさんの賃貸アパートの図面が貼られていて、看板にはほとんど掠れた文字で「折原不動産」「お部屋探し・土地活用のご相談 承ります」と書いてある。
そしてその隣にもう一つ、折原不動産には風変わりな看板がかけられていた。お客さんの気持ちを考えれば、この看板はない方が繁盛しそうなものだが、"彼女"は決して外そうとはしない。
僕は建物の前に立つと、ぎこちない音を立てて自動ドアが開くのを待ち、中に足を踏み入れた。二十畳くらいのスペースには灰色のタイルカーペットが敷き詰められ、商談用の大きな机や革張りの黒いソファがお行儀よく並べられている。二、三歩前に進んだ後、その場でくるっと右に向き直ると、頭を三十度くらい傾けて挨拶した。
「折原さん、お疲れ様です」
顔を上げると、目の先にいる女性――仰々しいデスクに腰掛け、横に向けたスマホを眺める、ラフなビジネスカジュアル姿の三十路――折原さんが気だるそうに返事をした。
「おう、篠田か。よく来たな」
スマホから目を離さないので、その言葉は僕の少し横の空間に投げられる。
「どうした? 何か儲け話でも持ってきたのか?」
「いや、たまたま近くに来たので寄っただけです。今年も異動や転勤がなかったので、一応挨拶しようかと」
僕は彼女が顎でしゃくったソファの前まで進むと、何も言わずに腰を下ろした。そのまま机に置かれた茶菓子に手を伸ばし、口に放り込みながら目線を上げる。お茶はいつも出てこないので、鞄からペットボトルを取り出しておく。
「そんな季節か。篠田は何年目になったんだ?」
「六年目です。もう若手じゃないって言われて、新人の面倒を見ることになってしまいました」
「ほう、あの青二才が教育係とはねぇ」
「まだ半分学生気分ですけど、なかなかおもしろい奴ですよ。今度連れてきましょうか?」
「いや、いい。辞めた会社の新卒なんて、てんで興味がないね」
折原さんはようやくこちらに顔を向けると、鈴を張ったような目を細くして、愉快そうに笑った。
折原さんと僕は、数年前までチームを組んで仕事をしていた。僕の勤める不動産会社は、都心の土地を買い占めてビルやマンションを建てる、所謂デベロッパーという業種だ。毎日のように外回りに出かけては、街の不動産屋を訪れて土地の売り情報を聞いたり、目ぼしい不動産を所有する会社にアプローチをかけて、何とか売買できないかと持ち掛ける。そこに新入社員として入社した時の、教育担当が折原さんだったのだ。
正直言って、僕はこの仕事に向いていない。体育会出身者が多いこの業界において、僕のような軟弱者はいつも置いていかれてしまう。多少の年数を重ねた今でもそう思うくらいだから、新人の頃といったらもう目も当てられないくらいに仕事ができなかった。
一方の折原さんは、部内でも群を抜いた営業成績を誇る、会社のエースだった。持ち前の頭脳と行動力で数々の重要プロジェクトを企画し、周囲を巻き込みながら推進する姿はとても同じ人間とは思えなかった。社内では経営層からの信頼も厚く、僕も周囲から「あいつについていけば大丈夫だ」と何度も声をかけられたことがある。
実際に、とんだ無能だった僕も折原さんのご指導ご鞭撻のおかげで、何とか〇.八人前くらいには成長することができたわけである。
「折原さんは調子はどうですか?」
「どうもこうもない。見てのとおりの暇人だ」
空いたほうの手をひらひらと振りながら、ビジネスチェアを左右に揺らす姿に、かつての覇気はない。折原さんが突然会社を辞めたのは、今から二年程前のことだった。
「先月も新規のお客さんはほとんど来なかったし、もう廃業してやろうかと思っていたところだ」
「でも家賃収入はたっぷりあるんでしょう?」
「当たり前だ。地主様を舐めるな」
今ではおよそビジネスの匂いがしない彼女だが、実はこのあたり一体に土地を持つ大地主であった。複数のアパートを経営しているので、寝てても生活ができる身分らしい。羨ましいかぎりである。
「まあ、そんなわけで時間は腐るほどあるんだ。好きなだけ寛いでいってくれ」
折原さんは背もたれに寄りかかると、再びスマホの画面に目線を移した。
会社の先輩後輩という縁が切れても、折原さんと僕の関係は続いていた。思いのほか気に入ってもらっていたのか、何かにつけて呼び出されては、色々なことを手伝わされている。
一方僕の方も、彼女は地主同士で深い繋がりを持っているので、有益な土地情報がないか定期的に足を運ぶようにしていた。たまに案件化できそうな話ももらえるので、不思議な持ちつ持たれつの関係だ。
お言葉に甘えて、今日はここでのんびり作業でもしようかとパソコンを開く。しかし、まさにキーボードを打ち始めようとした矢先、不意に折原さんが声をあげた。
「そうだ、篠田。今週末空いているか?」
すぐに顔を上げるが、スマホを見続ける彼女の真意は読めない。僕は数ある可能性の中から、次に飛んでくる言葉を予測する。
「久しぶりの"依頼"が来ているんだ。いつもみたいに手伝ってくれ」
ああ、あれか。予想の第三位くらいだが、手間は一番かかるであろう、あの話。念のため確認する。
「依頼って、また心霊調査ですか?」
「そうだ。最近は何もなかったから、久しぶりの大仕事だ。来てくれるな?」
そう問いかける彼女の顔は、かつての会社のエースの表情に戻っていた。
折原さんは、不動産業を営む傍ら、副業として心霊調査を請け負っていた。とは言っても、別に霊感商法のようなものではない。不可思議な現象に困っている人たちから依頼を受け、その現象を霊感ではなく科学的な視点から調査し、原因を突き止め、対処する。
端的に言うと、心霊現象専門の探偵のようなもの――彼女は自らこう名乗っている、"霊視探偵"と。
「そっちの仕事こそ廃業した方が良いじゃないですか?」
「馬鹿言うな。今の生活の一番の楽しみなんだ。止める訳にはいかん」
折原さんはその言葉どおり、この風変わりな探偵業を気に入っているようだった。いつからか外には「霊視探偵事務所」と書かれた看板が掲げられ、通行人を威圧している。
なんでそんなことをしているのか。何度か調査を手伝っていく中で聞いてみたことがあるのだが、いつも「別に大した理由なんてない。昔から心霊現象の類には興味があったんだ」とはぐらかされてばかりだ。
とはいえ、動機は何であろうと彼女は不可解な出来事の真実を追い求め、僕も巻き込まれるように様々な心霊現象に遭遇している。そんなことをしていると会社の同僚に知られたら、きっと鼻で笑われるだろう。
現代社会においては、ほとんどの人が心霊現象を信じていない。科学が全てを解明し、人類が未踏の領域はもうなくなってしまった。だから心霊現象などあるわけがない。そう思い込んでいる。
しかし、僕たちの身の回りには、まだよくわかっていないことはいくらでもある。たとえば、ふいに襲ってくる
それでも、誰も既視感を理由に病院へ駆け込んだりはしない。ただ、「そういうものか」とやり過ごしているだけだ。僕たちにはまだ知らないことがたくさんある。心霊現象だって、頭ごなしにないものと決めつけるのは早計だ。
「そういう訳だから、よろしく頼むぞ」
「えー、嫌ですよ。土曜日はゼネコンとゴルフなんです」
「じゃあ日曜日だ。まだアポは確定してないからな」
即座に言い返されて、僕は口をつぐんだ。こういう言い合いになると、頭の回転が早い彼女には敵わない。
「…ちなみに、どんな依頼なんですか? 行くつもりはないですけど」
「気になるのか。まだ詳しくはわからんが、依頼人はある日突然、怪しい人影に付き纏われるようになったそうだ。それを何とかしてほしいらしい」
折原さんは口元をにやりと歪めた。情報を小出しにしているのはわかる。ただの不審者なら、警察に相談すれば済む話だからだ。
「それだけじゃない、ですよね?」
「ああ、もちろん。何でも、その人影は夜になると家の中に現れるが、こちらが気がつくとすぐ消えてしまうんだそうだ。姿もはっきりしなくて、まるで幽霊みたいに不気味らしい。それに…」
「それに?」
またしても出し惜しみをされ、僕は間抜けに復唱する。すっかり前のめりになった僕の様子を見る、折原さんの目が妖しく光った。
「その人影が現れ始めたのは、喫茶店でとある怪談話を聞いてからだそうなんだ。そして、その怪談話には、現に悩まされている状況と、全く同じ内容が含まれていたと」
そこで言葉が切れたので、僕がごくりと唾を飲み込む音が部屋に響いた。
「その怪談話が、心霊現象に関連していると?」
「わからん。ただ、いくら手を尽くしても影はいなくならないらしくてな。"霊視探偵"の私に連絡してきたそうだ」
事の次第は何となくわかった。気にならないと言えば嘘になるが、何をやらされるかもわからない調査に貴重な休日の時間を割くのは気が進まない。僕はペットボトルのお茶を口に運びながら、できるだけ申し訳なさそうに答える。
「そういうのは、"霊視探偵"の方にお任せしますよ。僕は一般人ですから、お役には立てません」
「そうか、残念だな。実はちょうど昨日、かなり希少な土地の売却相談があったんだがな」
折原さんの言葉に、僕の耳がピクリと反応する。
「不忍通り沿いの整形地だ。周辺も駐車場だらけだから、うまくまとまれば良いマンションが建つ。御社に卸せないのは残念だ」
もったいぶった言い方をしながら、大げさに息を吸い込み、わざとらしく吐き出す。さらに、それだけでは足りないと言わんばかりに肩をすくめると、いじらしく目を伏せた。
折原さんは知っている。数字の上がらない営業マンが、困った時にどう行動するのか。そういう時は、知り合いの不動産屋を行脚して、何とか事業用地の情報を掴もうとするのだ。僕がここに来た理由も、彼女にはとっくに見透かされていた。
「どこの土地ですか?」
観念した僕の言葉に満足したように、折原さんはにやりと嗤って言った。
「日曜日は10時に中目黒駅な」
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