【5】
喫茶店で“スミオさん”の話を耳にしてから、気づけば一週間が経っていた。
その間に、私は目に見えて弱り果てていた。例の影は毎晩部屋に現れては、こちらを嘲笑うかのように揺らめいて消えていく。三日ほど前から、一晩で何度もその姿を目撃するようになった。私はいつもその影に怯えて、眠れない日々が続いた。
そんなわけで、昨日は生まれて初めて会社を病欠してしまった。今日も生気の抜けた目で出社したせいで、すれ違う人ごとに心配の声をかけられる始末だ。
「ねえ、遥香。大丈夫なの? 最近ずっとしんどそうだよ」
わざわざ様子を見に来た真美にも、私はただぎこちなく頷くことしかできなかった。睡眠時間は極限まで削られ、かろうじてまどろむのは通勤電車の揺れに身を任せているときくらいだった。
「……ごめん、色々あって……」
「またそうやってごまかして。水臭いわよ、何でも話してよ!」
憤る真美の顔を見ても、胸の奥は重く沈むばかりだった。自分の身に降りかかっていることを、どうしても口にする気にはなれない。もともと怪談やオカルトなんて信じていなかったし、そんなものは馬鹿げていると周囲にも言ってきた。だから今さら「幽霊に苦しめられてます」などと、誰に言えるだろう。
「お願いだから、無理だけはしないでね。……ところで遥香、服の趣味、変わった?」
真美が遠慮がちに指先で示したのは、私がいま着ている真っ赤なTシャツだった。
これは、私なりの対策だった。得体の知れない“何か”が家に棲みついているとわかった以上、私は擦り切れた頭を必死に回転させ、解決策を探っていた。これまでだって、仕事で修羅場をいくつもくぐり抜けてきた。その経験が、弱りきった心をどうにか支えていた。
まず私は、この現象を本当に心霊的なものだと仮定した。“スミオさん”という怪談に従えば、赤いものでお礼をすれば帰ってくれるらしい。だが、肝心のお礼の仕方を聞きそびれていたことに気がついた。だから部屋中に赤を散らしても、何の効果も現れなかった。
そこで私は次に、生活そのものへ赤を取り込むことにした。もしかしたら「赤いものを身につける」ことや「全身を赤で覆う」ことが条件かもしれない。そう考えて、量販店で無地の赤いTシャツをいくつも買い込み、こうして会社にまで着てきているのだ。
それから、私は“スミオさん”に直接「帰ってください」とお願いすることまで試した。怪談に倣い、午前二時きっかりに自分宛てにLINEを送り続けたが、何度やっても既読がつくことはなかった。
そもそも、私は“スミオさん”に何ひとつ願いごとをしていない。なのに、どうして私が取り憑かれなければならないのだろう。それだけは、どうしても腑に落ちなかった。
さらに私は、隙を見つけてはユーチューブを検索し、あのピンク髪の男の姿を探すことにした。確か“スミオさん”の話は動画の企画だと言っていた。ならば、もう配信されていてもおかしくない。そこにはきっと、"スミオさん"へのお礼の作法も語られている。そう思ったのだ。
だが、結果は徒労に終わった。“スミオさん”を扱った動画どころか、あのユーチューバーのチャンネルすら見つからない。あんなに大口を叩いていた割に、実際には取るに足らない存在だったのかもしれない。
とにかく、この線でできることはもうなかった。私は肩を落とし、ノートパソコンの暗い画面を閉じた。
別の角度からも対策を考えた。今度は、この現象を心霊の仕業ではなく、何か現実的な原因があるのだと仮定してみたのだ。
まず部屋の至るところにビデオカメラを設置し、あの朧げな影を捉えようとした。けれど驚いたことに、どのカメラにもそれらしいものは一切映らなかった。撮影中、私の部屋には何度も影が現れたはずなのに、記録されていたのは、ただ右往左往する私の姿だけ。
その映像を見終えたとき、私は意を決して心療内科の扉を叩いた。
映像に残らないということは、もしかするとあの影は、私自身の幻覚にすぎないのかもしれない。知らないうちにストレスを溜め込みすぎておかしくなったのか、それとも本当に脳の病気にかかっているのか。
そんな疑念を抱えながら受診したものの、下されたのは「睡眠不足」という当たり前すぎる診断だけだった。念のために眼科にも足を運んだが、こちらは健康そのものだった。
それに、映像に影の姿こそ映っていなかったが、勝手に開く窓の様子はしっかり記録されていた。仮にあの影が幻覚だとしても、今度はこのポルターガイストまがいの現象をどうにかしなければならない。
結局、私は何ひとつ解決策に辿り着けないまま、ただ疲労と不安を積み重ねていくだけだった。
そして、その週末のこと。部屋でぐったりと力尽きていた私は、不意に鳴ったインターホンの音に顔を上げた。画面の向こうで、真美が心配そうに手を振っている。その姿を見ただけで、こらえきれずに涙が頬を伝い落ちた。
「こんなの、絶対普通じゃないよ。お願いだから、何があったのか、ちゃんと話して」
散らかりきった部屋の中、わんわんと泣き崩れる私を前に、真美は真剣な目でそう言った。
もう限界だった。胸の奥に積もっていたものが決壊したように、言葉がぽつり、ぽつりとこぼれ落ちていく。
「……夜になるとね、部屋の中に“影”が出るの。最初は気のせいだと思ってた。でも……何度も、何度も見たの。窓が勝手に開いたり、誰かが後ろに立ってるみたいな気配がしたり……。怖くて、怖くて……」
声が震えて、言葉が途切れ途切れになる。涙でにじむ視界の中で、私はなお必死に伝えようとする。
「“スミオさん”って怪談知ってる? ……私、お願いなんかしてないのに、取り憑かれたみたいに、毎晩あの影が現れるの。赤いものを揃えたり、LINEを送ったり、全部試したのに……何も変わらないの」
嗚咽が混じって、もううまく声が出ない。喉の奥が痛くて、でも止まらない。
そんな私の前で、真美はひたすら真剣に、眉根を寄せて頷いていた。茶化すことも笑うこともせず、ただ一つひとつの言葉を飲み込むように聞いてくれている。その頷きが、どれほど心強かったか――私はそのとき初めて、自分がどれだけひとりで抱え込んでいたかを思い知った。
「ねえ、私、どうしたらいいかな……」
震える声が、自分でも情けないくらいか細く響く。真美は少しのあいだ視線を落とし、押し黙っていた。そして、ゆっくりと言葉を選ぶように答える。
「……ごめんね。私にも、どうしたらいいのかはわからない」
私は力なく頷いた。そりゃそうだ。こんな話をいきなり聞かされて、どうにかできるはずもない。
けれど、真美はそのまま沈黙せず、ふいに声に力を込めた。
「でもね、誰に頼ったらいいのかは知ってる。こういう現象に詳しい、プロの人に」
その言葉に、思わず私は顔を上げた。
「……プロの人って、霊媒師とか、そういう類の人のこと?」
「ううん、違うよ。遥香、そういう胡散臭いの嫌いでしょ。もっと現実的で、もっと論理的に対処してくれる人」
真美はそう言って、視線を落とした。
「実はね、私の住んでいるマンションでも、前にちょっとした騒ぎがあったの。ある年配の女性が失踪しちゃって、その人の部屋からは誰もいないのに変な音が響いていて……。幽霊じゃないかってみんな怯えてた。でも、その人が来てからすべてが終わったの。今はもう何も聞こえなくなった」
私は思わず身を乗り出した。今の私に必要なのは、まさにそういう存在だ。心霊現象だか何だかわからないものを、とにかく“何とかしてくれる”人が。
「教えて! その人の名前は?」
「名前はわからないけど……変な肩書きだったから、それだけは覚えてる。えーと……何だっけ……」
真美は視線を宙に彷徨わせ、何かを手繰り寄せるようにして、ふっと目を細めた。
「確か……“霊視探偵”、だったかな」
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