【4】
その夜は、結局一睡もできなかった。寝室へ入る気力はとうになく、リビングのソファに身を沈め、部屋中の電気をすべて点けたまま、ただ時間が過ぎていくのを待った。目を閉じれば、またあの影が暗闇のどこかに現れる気がして、まぶたを下ろすことすらできなかった。
やがて明け方、窓から差し込む朝日の気配を確かめてから、ようやく意を決して寝室に足を踏み入れる。そこには何もなかった。昨夜、不自然に開いていた窓の向こうにも、怪しい影は影すら落としていない。確認した途端、糸が切れたようにその場に座り込んでしまった。
夢を見ていたのだろう。――そんなふうに思えるはずもないのに、無理やり自分を納得させる。立ち上がって、深呼吸をひとつ。とにかく仕事だ。片付けなければならない業務は山ほどある。恐怖を心の奥へ押し込めるようにして、私は身支度を整え始めた。
「おはようございます」
無理やり声に明るさを乗せると、不思議と気分まで軽くなる気がした。いつか読んだ自己啓発本に、落ち込んだときはあえて元気に振る舞え、と書いてあったのを思い出す。どれも似たようなことばかりしか書いていないと思っていたけれど、案外馬鹿にできないのかもしれない。
「お、遥香! おはよ〜」
少しして、真美が私の席に顔を出した。ピンクの薄手のニットに、ふんわり巻いた髪。ほとんどすっぴん同然の私とは正反対だった。
「昨日は楽しかったね。また行こうよ」
「うん……。ねえ真美、昨日の夜さ、変なこととかなかった?」
思わず口をついて出た問いに、真美は小首をかしげる。
「変なことって?」
「……いや、やっぱり何でもない」
私はそれ以上言葉を継がず、眠気の残る目をパソコンの画面へと戻した。
仕事というものは、どんなときでも容赦なく降ってくる。寝不足だろうが何だろうが、メールの未読数は遠慮という言葉を知らない。私は、頭の隅にこびりついた昨夜の光景を追い払うように、目の前の案件にひたすら意識を沈めていった。
「高瀬くん、ちょっといい?」
若手の高瀬を自分のデスクの脇に呼び、来週のプレゼンの段取りを説明する。スライドの構成、クライアントのクセ、想定質問。高瀬は相づちを打ちながら、真面目な顔でメモを取っていた。
「じゃあ、その方向で一回叩いてみて」
そう締めくくると、高瀬は「はい」と軽く頭を下げてから、ふと何かを思い出したように足を止めた。鼻先がわずかに動く。
「あれ、なんか……焦げ臭くないですか?」
私は瞬きをした。
「え?」
高瀬はきょろきょろと周囲を見回し、もう一度、空気の匂いを確かめるように浅く息を吸う。
「ほら、何と言うか、何かを燃やしたみたいな……」
オフィスの空気は、いつも通りのコピー用紙とコーヒーの匂いしかしない。少なくとも、私の鼻にはそうとしか感じられなかった。
「さあ? 給湯室でなんかしてるんじゃない?」
できるだけ軽くそう言って、パソコンの画面に視線を戻す。自分の声が、ほんの少し上ずっていた気がした。高瀬はまだ不思議そうな顔をしていたが、そのまま自席へ戻っていった。
焦げ臭い匂い。黒い影。
一瞬、昨夜のの光景が頭の奥で結びつきかける。私はその糸を慌てて断ち切るように、キーボードを強めに叩いた。――関係ない。ただの思い込みだ。そう決めつけることでしか、仕事に戻る術が見つからなかった。
それからも体に鞭を打ち続け、意地とプライドだけでどうにか月曜日をやり過ごした。帰り道のコンビニで、柄にもなく滋養ドリンクなんて手に取ってしまい、家に着くなりソファへ身を投げて、一気に飲み干す。
舌に残る苦みをしかめ面で受け止めながら、私はゆっくりと部屋の隅々まで視線を巡らせた。――よし、異常はない。大丈夫。そう言い聞かせるように何度も心の中で繰り返す。そして、鉛のように重い体をなんとか引きずって、風呂場へと向かった。
本当に疲れ果てたときのために取っておいた入浴剤を、今夜はついに解禁した。スマホからはお気に入りのラジオ番組を流し、熱めのお湯に身を沈める。じんわりと体の芯まで温まっていくにつれ、気分はふわりと天に昇るようだった。
明日はマッサージにでも行こうかな。自分の機嫌は、自分で取る。それくらいのことができてこそ、大人の女というものだ。
髪を洗い終え、トリートメントを指先で丁寧に馴染ませていく。泡がするすると解けて、髪がしっとりと落ち着いていく感覚に、ようやく一日の疲れが洗い流されていく気がした。湯気に包まれ、目を閉じてひと息つく。――このままなら、ぐっすり眠れるかもしれない。
そう思ってふと視線をあげ、正面の鏡を覗き込んだ。
一瞬で、目が見開かれる。
鏡の中に映っていたのは、びしょ濡れの自分の体と、白く清潔なバスルーム。背後には脱衣所へと続く曇りガラスの扉。――その向こうに、場違いなものがあった。輪郭の定まらない、靄のようにぼやけた黒い影。
思わず反射的に振り返る。曇りガラスの扉をがばっと開け放ち、濡れた足で脱衣所へ踏み出した。冷たい空気が一気に肌を撫でる。
けれど、そこには誰もいなかった。
狭い脱衣所は、いつも通り整然としていて、バスマットの上には私の足跡が濃く残るばかり。壁の隅にも、扉の影にも、黒い人影などかけらも見当たらない。
胸の鼓動が乱れ打ちのように鳴り響く。確かに見たはずなのに。確かに、扉の向こうに――。
慌ててタオルを体に巻きつけ、脱衣所を飛び出してリビングへ転がり込む。だが、そこにもやはり何の気配もない――いや、違う。おかしい。視線は自然とソファの向こう、バルコニーへと続く窓に吸い寄せられていた。
またしても、窓が開いている。閉め忘れたはずがない。アラサーとはいえ、一人暮らしの女が、風呂に入るときに窓を開け放つなんて不用心な真似をするわけがない。確かに閉めていた。間違いなく。なのに、いまは口を開けている。
おそるおそる足を進め、窓の外を覗き込む。夜気の向こうに、あのゆらめく影が――いるような、いないような、判然としない。ガラスに反射した自分の顔が蒼白になっていることだけは、はっきりとわかった。無理もない。はっきりきって、私はここ数年で一番追い詰められていた。
――『スミオさん』。
脳裏に、あのユーチューバーが得意げに語っていた幽霊の名がふいに浮かび上がる。間の抜けたような響きだと思っていたはずなのに、今ではその音が恐怖そのものとなって全身を支配していた。
普通なら、二日続けてこんなことが起こるはずがない。偶然では片づけられない。確実に、いる。わからないけれど、とにかく得体の知れない存在が。何とかしなければ。立ち尽くしたまま、私は必死に思考をめぐらせる。
そして、不意に思い出した。そうだ――“赤”。あの怪談には、願いを叶えてもらったなら赤いものでお礼をしなければならない、そんな続きがあったはずだ。
その瞬間、私の体はまるで火を噴くように弾け、衝動に突き動かされるまま部屋中のクローゼットやチェストを乱暴に開け放った。赤、赤、赤――とにかく赤いものを探さなくては。
赤いリップ、赤い薔薇のブローチ、背表紙まで赤い装丁の洋書、冷蔵庫の隅でしなびかけたトマト、そして大学時代に一度だけ着たことのある、真っ赤なビキニ。掴んでは床に投げ、また掴んでは散らかし、部屋の中は赤の残骸で埋まっていく。
そして私は、誰もいないはずの空間に向かって叫んだ。
「何でも持っていっていいから! お願いだから、私の部屋から出ていって!!」
しかし、返事はどこからも返ってこなかった。ただ、静寂だけが耳を締めつけていた。
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