【3】

 真美と観た映画は、いま流行りの歌舞伎を題材にした邦画だった。上映時間が三時間もあると知って、正直トイレが心配だったけれど、なんとか無事に持ち堪えた。


 口コミ通りの完成度に満足し、その足で立ち寄った居酒屋では、熱も冷めやらぬまま映画談義に花を咲かせる。真美は会社の同期のなかでも、特に気心が知れている存在だった。


「ねえ、遥香。最近いい人とかいないの?」


「全然。もうそういうのは諦めてるから」


「ちょっと、またそんなこと言って。遥香は可愛いんだから、諦めるには早すぎでしょ」


 間髪入れずにフォローを入れてくるあたり、さすがだと思う。真美は昔から、誰からも嫌われない立ち回りができる、いかにも世渡り上手なタイプだ。新入社員の頃からずっとそんな真美に助けられてきて、気づけば二人とも立派なアラサーになっていた。周囲がどんどん結婚していく中で、いまだ独身仲間でいてくれる真美の存在は、正直かなりありがたい。


 グラスの氷がちりりと音を立てたところで、ふと思い出したことがあった。どうせなら、真美の大好物をひとつ投げてやろう。


「そういえばさ。私の話じゃないんだけど……制作部の内村部長、うちの田辺さんと不倫してるらしいわよ」


 その瞬間、目の前の真美の瞳が、待ってましたと言わんばかりにぱっと見開かれる。


「ちょっと待って、それいつから? 誰情報?」


「この前、撮影上がりの打ち上げでさ。二人だけで二次会に消えてったって、メイクさんが言ってた」


「うわ、絶対そうじゃん。あの人、お子さんいるでしょ? ていうか田辺さん、趣味悪くない?」


 真美は箸を持ったまま、一人で首をぶんぶん振っている。口では呆れているふりをしながら、その頬は楽しそうに緩みっぱなしだ。


 そこから先は、ほとんど自動的に話が転がっていった。田辺さんの服装が最近やたらと女っぽくなったこと。内村部長の残業が、なぜか彼女のスケジュールと連動していること。店員がたまに呆れたようにこちらを見るくらいには、私たちは声をひそめることも忘れて、ああだこうだと推理ごっこに熱中した。


 人の話というのは、どうしてこんなにも面白いのだろう。社会のことだとか将来のことだとか、真面目で立派な話より、誰それがどうした、あの人がこう言っていた、という噂やゴシップのほうが、ずっと耳に馴染む。たぶん私だけじゃない。みんな、少しだけ他人の生活を覗きたいのだ。だからSNSを開いて、知らない誰かのつぶやきを追いかけてしまう。関係のないはずの言葉に安心したり、勝手に優越したり、あるいは共感したふりをして、今日の自分を整えている。そんなものだ。


 その後も取り留めのない話で盛り上がり、心地よい酔いに包まれて帰宅したときには、すでに日付が変わっていた。


 明日からはまた仕事。眠りたい衝動を必死に押し殺し、なんとかメイクを落として、手短に湯船にも浸かる。あとは歯磨きだけ――そう思ってリビングのソファに腰を下ろした瞬間、糸が切れたように力が抜け、そのまま眠りに落ちてしまった。


 どのくらい眠ったのだろうか。心地よい夢の底からふわりと意識が浮かび上がり、目を閉じたままうーんと背筋を伸ばす。――いけない、せめてちゃんとベッドに行かなきゃ。そう思って瞼を開いた時、異変に気がついた。


 何かが、視界の端を横切った。黒い影――けれど、あまりに素早くて正体まではつかめない。大きさは、ちょうど人の背丈ほどだろうか。そんなものが、ふっと闇のかけらのように動いて、リビングの隣にある寝室の扉の向こうへと消えていった。


 その瞬間、まるで冷水を浴びせられたように、さっきまでの眠気が一気に吹き飛ぶ。私は息を潜め、影の消えた先を凝視した。見間違いだろうか――いや、それにしては、妙に輪郭が確かだった。はっきりとは見えないのに、「そこにいた」という感覚だけは、奇妙な確信を伴って胸に残っていた。


 もちろん、この家にそんな心当たりはない。私は動物が苦手で、ペットを飼うなんて発想すらないし、同居人などいるはずもない。では、いったいあれは何だったのか。確かめずにいられるわけがなかった。なぜなら、あの黒い影が消えた先は、まさにこれから自分が向かおうとしていた寝室だったのだから。


 ゆっくりと、慎重に寝室へ足を進める。裸足の裏がフローリングにじっとりと張りつき、そこで初めて、自分が異様なほど汗をかいていることに気づいた。寝汗にしてはおかしい。背中を伝う汗の流れが、この状況の異常さを実感させる。


 ぽっかりと口を開けた寝室の扉の前に立つ。向こうは灯りが落ちていて、目を凝らしても暗闇が広がるばかりだった。


 私はその場でしばし息を殺す。中からは何の気配もない。耳に届くのは、どこからか響くブーンという電子音だけ。――大丈夫。何かがいるはずがない。きっと寝ぼけていただけだ。そう言い聞かせながら、意を決して壁のスイッチに指先を伸ばした。


 そこには、いつもの寝室が、ただ静かにあるだけだった。


 大の字で眠りたいからと奮発したセミダブルのベッド。サイズが合わないことを言い訳にして買い換えた、少し贅沢なマットレス。実家から持ち出した、端がほつれたタオルケット。何も変わらない。見慣れた風景が、そこにある。


 深いため息が漏れた。そりゃそうだ、何かいたら困るに決まっている。そもそも視界の端に何かが映ったように感じることなんて、誰にでもあるはずだ。なのに、私はいったい何を大げさに怯えているのだろう。きっと、昼間のユーチューバーたちのせいだ。変なオカルト話を聞いたから、余計な想像が頭をよぎっただけ。それだけだ。


 そのとき、びゅうっと風を切る音がして、反射的に窓の方へ目をやる。ベッド脇の掃き出し窓がわずかに開いていて、入り込んだ隙間風にカーテンがはためいている。


 あれ、おかしい。ついさっき目をやったときには、確かに窓は閉じていたはずだ。また見間違えか。そう自分に言い聞かせながら、一歩踏み出した瞬間、私は思わず息を呑んだ。


 目の前に、それはいた。


 窓の外、おどろおどろしい影が、まるで闇そのものから滲み出すように立っている。ぞわり、と背筋を這い上がる冷気。心臓が一瞬止まったかと思うほどに強く収縮する。ガラスの反射と、夜の闇に埋もれたその影の細部は見えない。ただ、そこに「何かがいる」と認識した途端、全身が凍りついた。


 喉がひゅっと縮み上がり、空気が胸の奥で固まって動かなくなる。悲鳴を上げたいのに、声帯が凍りついたように震えもせず、ただ口だけが勝手に開いた。


「あ……っ」


 かすれた吐息のような音がもれた、次の瞬間――影は、音もなく、煙のように掻き消えた。まるで最初から存在しなかったかのように、跡形もなく。


 ただ、胸の奥で荒々しく暴れる鼓動だけが現実を主張していた。息を整えようとしても、肩は小刻みに震え、体中がじっとりとした汗で滲んでいる。


『昼でも夜でも、黒い影みたいな何かが、ずっと背後をついてくる』

『最後には、スミオさんがこの世ではないどこかに連れ去ってしまうんだって』


 あの態度の悪いユーチューバーの言葉が、不意に頭の奥で轟いた。 ――まさか。そんなはず、あるものか。あれはただの怪談だ。子どもの遊びみたいな話に過ぎない。だいいち、私はあの話にあったようなことを、何もしていないら。そう思っても、先ほど見た影の残滓は消えない。


 呆然としたまま、私はしばらく身じろぎもできなかった。

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