第一幕 依頼人

【1】

 喫茶店での一番の楽しみといえば、やはり近くの席の話を盗み聞きすることだ。


 そんなことを心の中でつぶやきながら、私はストローで残りわずかなアイスカフェラテを啜った。氷が溶けきった淡い甘さが舌に広がり、ついでにフォークを手に取って、目の前のシフォンケーキへと差し込む。この店の名物でもあるそのケーキは、ほどよい甘さとふかふかの生地がたまらなくて、もう何度も頼んでいるお気に入りだ。


 けれど正直なところ、周囲からふと流れ込んでくる日常の断片――笑い声や愚痴、誰かの小さな秘密――それらのほうが、私にとってはずっと甘美なスイーツだった。


 ここ、新宿駅前の老舗喫茶「珈琲西武」の中は話題に事欠かない。ざわめく店内に身を置き、少し耳を澄ませるだけで、いくつもの人生の断片が飛び込んでくる。


 若いカップルが別れを告げあう声、どこか胡散臭いビジネスの誘い文句、旅行の計画を立てる老夫婦に、明らかな機密情報を大声で話す偉そうなサラリーマン。そんな雑多な声のひとつひとつに耳を預けることが、私にとっての密やかな愉しみだった。


 人は結局、自分の話を誰かに聞かせたい生き物で、喫茶店はその欲望を無限に蒸発させる装置みたいなものだ。誰かが言葉をこぼし、別の誰かが受け止める。私はその湯気のようなやり取りを、黙って横から吸い込んでいるだけだ。はしたないとは思いながらも、誰にも迷惑をかけていないと、いつも自分に言い訳をして耳を傾けている。


 とはいえ、別に休日の昼下がりに女ひとりで、人の話を下世話に楽しんでいるわけではない。仕事の立場上、私は常に世の中のトレンドを掴んでおくことが求められているのだ。


 株式会社白報堂 広告宣伝部営業課 課長 大西遥香。


 それがこの春から私に与えられた肩書だ。クライアントの商品を、最も効果的に、そして最も鮮烈なやり方で世に広める。それが、もう十年以上続けてきた、私の仕事だった。


 最適な提案を生み出すためには、常に感覚を研ぎ澄ませていなければならない。人々の欲望や嗜好の揺らぎを、わずかな兆しのうちにすくい上げる。そのために、私は日々アンテナを張り巡らせている。実際、この店で耳にした女子高生たちの会話が、思いがけず仕事に生きたこともあった。


 そんなわけで、今日も友人との待ち合わせ場所をここに指定して、少し早めに到着し、一人でケーキをつついているわけだ。けれど、今日は耳に入る話がいまひとつ冴えない。新年度が始まったばかりのこの時期は、例年浮かれた新社会人が無邪気な話をしているものだが、今日に限ってはそれらしい人影もなかった。


 そろそろ相手が来る時間だし、その前に食べきってしまおうと、フォークをもう一度シフォンケーキに差し込んだ、その時だった。


「いや、案件のギャラはもっと釣り上げられるはずだよ。俺たちの再生数なら、向こうも断れないって」


 調子のいい男性の声に、思わず耳が反応した。できるだけ首を動かさないようにして、視線だけをそっと横に流す。そこには、派手なショッキングピンクの髪をした男と、同じくらい奇抜な格好をした若者たちが、身を寄せ合うようにして話し込んでいた。


「でも、その……企業案件って貴重じゃないですか。あんまり強気にギャラの話ばかりすると、企画そのものが流れてしまうかもしれませんし」


「心配すんなって。俺たちはこのジャンルじゃかなりチャンネル登録者が多いし、むしろ向こうの方が、のどから手が出るほど俺らを欲しがってるはずだ」


 おずおずとした女性の声に、ピンク髪の男が自信満々に言い放つ。


 ――なるほど、ユーチューバーか。私はシフォンケーキに視線を戻しながら、心の中でひとりごちる。


 動画配信なんて仕事が、世間にすっかり定着してから、もう随分経つ。かつては白い目で見られた職業が、今では子供たちの「なりたい仕事」ランキングの常連なのだから、時代はずいぶん変わったものだ。そう思いながらも、耳は自然と彼らの会話を追いかけていた。


「だってさ、前にやった“首なし地蔵の首が夜中に戻る”って企画、あれ再生数すごかっただろ? ああいうネタは企業も乗っかりやすいんだよ」


「でも、あれは本当に危なかったじゃないですか。地元の人に見つかって怒られそうになりましたし……」


「いいんだよ。俺たちは世の中のために"検証"をしてるんだからさ。ちょっとくらい大丈夫だろ」


 若者たちの熱っぽい声を聞いて、なんとなく彼らの正体が見えてくる。きっと、オカルト系のユーチューバーなのだろう。世間に散らばる怪談や都市伝説を掘り起こし、夜な夜な"検証"と称して配信しているに違いない。


 そういう連中は珍しくもないし、誰しも得体の知れない話には妙に惹かれてしまうものだ。……もっとも、私はまったく興味がないけれど。


「それよりさ、次の動画の企画、そろそろ決めないとマジでやばいだろ」


「そうですね……じゃあ、“八尺様”とかどうです?」


「いや、それはないって。あれでしょ、でっかい女の幽霊。もう擦られすぎて、今さら受けねえよ」


 目線をそらすふりでちらりと覗くと、派手なピンク髪に詰められて気まずそうに縮こまっている、小柄な眼鏡の女性がいた。おそらくマネージャーだろう。だが、それにしてもあのピンク髪の態度は横柄すぎる。もしうちの後輩だったら、間違いなく引っ叩いているところだ。


「そういえばさ、この前ちょっと面白い話を仕入れたんだよな。“スミオさん”っていうんだけど」


 スミオさん? 怪談にしては、あまりにも平凡な響きに思わず眉が動く。もっともらしい雰囲気もなければ、恐怖を煽る匂いすらしない。


 そんな私の心の中を見透かしたように、ピンク髪は得意げに身を乗り出して、語り始めた。

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