ノイズの向こうに響く歌
三角海域
ノイズの向こうに響く歌
錆びた鉄塔の下で、雨が降り始めた。
「雨粒の直径平均4ミリ。あと3分で止む」
五歳のマシロは、虚空を見つめたまま呟いた。雨粒が服を濡らしているのに、傘を差そうともしない。
隣では、レンが泥の中に両手を突っ込んでいた。
泥だらけの掌の上で、緑色の小さな生き物が跳ねる。レンは無邪気に笑った。
「マシロはすごいなあ。世界のことが全部書いてある本が頭の中にあるんじゃない?」
「そんなの退屈だよ」
マシロの声には、五歳児のものとは思えない諦念が滲んでいた。
「結末が最初からわかってるなんて、おもしろくない」
レンはカエルを逃がしてやると、泥のついた手でマシロの手を握った。
「でもさ、あのカエルがどっちに跳ぶかは、マシロにもわかんないでしょ?」
「わかる。風向き、地面の傾斜、筋肉の収縮率。全部計算できる」
「じゃあ、あたしがこれからどうするか、わかる?」
レンはいきなりマシロを抱きしめた。泥と雨で、二人ともびしょ濡れになる。
マシロの瞳に、ほんの一瞬だけ、戸惑いの色が浮かんだ。
「……わからない」
小さな声だった。
マシロの予測通り、雨は3分後に止んだ。
十二年後の冬。
「寿命、十八歳に設定した」
マシロは部屋の片隅で、端末を操作しながら淡々と告げた。画面には、彼女自身の生命維持システムの管理画面が表示されている。
この時代、医療技術の発展により、人は体内に埋め込まれた生体端末で自分の寿命を管理できるようになっていた。病気も老化も、すべてプログラムで制御される。生きるのも、死ぬのも、個人の意思次第。
マシロは、その権利を行使すると決めたのだ。
レンは工具箱を床に落とした。金属音が静寂を切り裂く。
「何言ってんの」
「この世界には、もう飽きちゃった。全部、予定調和なんだもの」
マシロの声には感情がなかった。まるで天気予報を読み上げるように、自分の死を語る。
端末の画面には『生命維持:十八歳まで継続』の文字が冷たく光っていた。
「誰と話していても同じ。みんな、計算式の中を動いているだけ」
マシロは小さく笑った。
「レンだけが……あなただけが、時々、計算式から外れるの。でも、それももう十分見た」
レンはマシロの肩を掴んだ
「あたしが証明してやる。マシロの計算式にはない『バグ』が、この宇宙にはあるって」
「無理よ。確率はゼロに収束してる。宇宙は孤独なの、レン。宇宙の可能性は未知じゃない」
「じゃあ、ゼロじゃないって証明できたら、生きる時間を延ばしてくれる?」
マシロは初めて、レンの顔をまっすぐ見た。
生体端末は、本人の意思でいつでも設定を変更できる。それは究極の自由であり、究極の孤独でもあった。
「……約束する」
マシロの指が、わずかに震えた。
国立宇宙観測機関のクリーンルーム。塵一つない白い空間で、レンは超高性能望遠鏡のメンテナンスをしていた。
この望遠鏡は、マシロの理論をベースに設計されている。完璧なノイズ除去システムを搭載し、宇宙からの信号を限りなく純粋な形で受信できる。
だが、受信されるのは「虚無」だけだった。
「今日も何もなし、か」
レンは深夜、誰もいなくなった研究所で溜息をついた。画面に映るのは、整然としたデータの羅列。あまりにも綺麗すぎる、静寂の証明。
必死に研究成果を重ね、マシロの余命は、また一年延びた。だが、それだけだ。
もう出せる成果は出し尽くしている。このままでは、マシロの死を止められない。
レンはポケットから、古びた真空管を取り出した。昼間、廃棄処分が決まった旧式装置から密かに抜き取ったものだ。
彼女はそれをジャケットの内ポケットに忍ばせると、夜の街へと消えていった。
あの鉄塔は、今も二人の秘密基地だった。
レンは盗み出した部品で、少しずつ鉄塔を改造していた。旧式の受信機、継ぎ接ぎだらけの回路、アナログなメーター。マシロが「不確定要素が多すぎる」と嫌う、雑多な機械の寄せ集め。
「また、そんなガラクタいじって」
マシロは時々、レンの作業を見に来た。
「完璧すぎると見えないものだってあるんだよ」
「それ、科学的じゃないわ」
「あたしはエリートじゃないから。やってることも計算というかほとんど整備だし」
レンは手の汚れを拭き、マシロの頭を撫でた。それから、いつものように鼻歌を歌い始めた。調子外れで、リズムもめちゃくちゃな歌を。
「マシロの頭の中は完璧すぎるんだ」
マシロは目を細めた。
「残り時間、三年。何も見つからなかったら、今度こそ終わりにする」
「見つけてみせる」
レンは、マシロの目を見て言った。
「絶対に」
三年が過ぎた。
マシロは二十代半ばになっていた。レンの「公式」な研究成果はゼロ。国の観測所では、今日も完璧な虚無が観測され続けている。
契約更新日の夜、激しい雷雨が鉄塔を叩いていた。
「もういいよ、レン」
マシロは湿ったプレハブ小屋の隅で、端末を操作していた。画面には『安楽死シークエンス:待機中』の文字。実行予定時刻は、夜明け。
「十分付き合ってくれた。ありがとう」
レンは答えなかった。血走った目で、鉄塔に繋がれた継ぎ接ぎだらけのコンソールに向かっている。
「ねえ、マシロ」
レンの声は震えていた。
「マシロはいつも、『ノイズは計算の邪魔』って言って、完璧なフィルタリングプログラムを組むよね」
「当たり前でしょ。純粋な信号以外は意味がないもの」
「でも、あたしはそうは思わない」
レンは立ち上がり、システムの中枢パネルに手をかけた。
「レン、何するつもり?」
国の観測所から接続されているデジタル受信系統のケーブルをレンは引き抜いた。そして、自分が三年かけて組み上げた、真空管だらけのアナログ受信機へと切り替える。
瞬間、スピーカーから爆音の砂嵐が溢れ出した。
「うるさい! やめてレン、最期くらい静かに死なせてよ」
マシロは耳を塞いでうずくまった。だが、レンだけはヘッドホンを押し当て、その轟音の海に潜っていく。
耳障りな雑音。大気の乱れ。都市の電波ノイズ。雷鳴。
その、混沌とした汚れのレイヤーの、最深部。
マシロの天才的な聴覚が、ある違和感を捉えた。
それは、自然界のランダムなノイズにしては、あまりにも規則的だった。まるで、誰かが歌っているような。調子外れで、リズムもめちゃくちゃで――。
レンの鼻歌に、似ていた。
「……あ」
彼女の完璧な計算式が、ずっと「不要」として削除していたデータの中に埋もれていたのだ。
それは、宇宙からの声だった。
「嘘……」
マシロは震える手でコンソールに這い寄り、レンを押しのけてキーボードを叩いた。
「これ、なに? 既存の物理法則と違う。パターンが読めない。……レン、わたし、わからない!」
涙を流しながら叫ぶマシロの声は、雷鳴よりも鮮烈だった。
レンは、油と煤で真っ黒になった手で、涙に濡れたマシロの頬を優しく拭った。
「あたしの勝ちだ」
マシロは震える指で端末を取り出した。
『寿命設定:残り10分』
その文字を消去し、代わりに別の記号を打ち込む。
『未定』
雨が上がった。雲の切れ間から、朝日が差し込んでくる。
赤と白の鉄塔が、かつてないほどの輝きを帯びていた。
ノイズの向こうに響く歌 三角海域 @sankakukaiiki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます