本編

 中津川市から笠置山へと続く道、その脇道をしばらく進むと、平屋建ての割と大きな古民家がある。農機具小屋と小さな動物小屋には、古いながら手入れされたトラックターと、10羽の鶏が早朝の野山に甲高い鳴き声を上げている。


「う、うぅん」


 古民家の一部屋で目を覚まして、買って日の浅いベッドから起き上がった未知は、天に両腕を上げて背伸びをする。

 今日も一日が始まる、差し込んできた朝日の光にここに来た日を思い出した。


 事件後、イタリアから帰国してしばらく一人暮らしをした。保護者が必要とのことではあったが、親類縁者のほとんどが引き取りを拒む中、ある人だけが、未知の引き取りを申し出てくれた。


 玲香おばさん。


 小学校低学年で数回ほどしか会ったことのない、喪女のようなおばさんが記憶にあった。

 中津川駅に出迎えに来てくれた玲香を見て、一瞬、記憶違いかと不安になった。

 40歳と聞いていたのに、会えば30前半としか思えない、大人の女が黒いワンピースを纏って立っている。


「未知ちゃん?」


 黒ショートに柔和な顔立ちのくせに、鋭い目が未知を見て微笑み、そこに朧気ながらの面影があって、未知の頬も自然と緩んだ。


「久しぶりね、玲香よ」

「お久しぶりです、玲香おばさん……」


 微笑みがかき消すように消える。

 そこに冷めた女の悪辣な顔が眼光鋭く未知を睨みつけていた。


「お久しぶりです、玲香さん」

「うん、久しぶり」


 先ほどの光景は見間違いかと思うほどに、消え戻った玲香の微笑みと共に、未知の手を握った。


「大変だったわね、でも、今から住むところも、ちょっと……大変だけれど大丈夫よ?」

「ちょっと大変?」


 未知は面食らった。

 田舎的な地での「ちょっと」を、どこまで信用したら良いのだろうかと、疑ってかかったのだ。

 メールで送られてきた家の写真は古民家の家だった、周りは手入れはされているが、木々の茂りがあり、正直、クマが出ますと言われれば、はいそうですね、と納得できてしまえるほどだ。

 

「悪いところではないの、ただ、メールでも伝えたけど、不機嫌な男が一人、いるのよ」

「あ、旦那さん……、もしかして……」

「未知ちゃんのせいじゃないから安心して、アメリカから長いこと燻ってるせいだから」


 かつてテレビで一度だけ、玲香を見たことがある。無論、玲香の特集番組ではない、『未知の知を切り開く者たち』というスタートアップ企業の特集番組で、若手社長の近くに、社長秘書のように常に寄り添い、研究の手助けをする喪女のような姿ではあったけれど、その表情はとても楽しそうだった。

 そう、寂しさが入り混じった苦笑を浮かべる今とは、違っていたけれど。


 駅からの道中は、やはり田舎的なちょっとは信用できないことの、証明のようにも未知には思われた。

 1時間ほどの距離が「ちょっと」なのだという。

 そのあたりを指摘してみると、玲香は苦笑しながら「アメリカでは都市部でなければ普通なのよ」と、冗談めかすように言った。

 時刻は午後5時、夕焼け空の浮いた雲の端々が夕焼け色から黄金色へといたった頃、ふと玲香が小さく声を漏らした。


「Every cloud has a silver lining.」

「えっ?」

「あら、ごめんなさい。聞こえてしまった?夕暮れ時は呟きたくなるの」

「どんな不幸でも、何かしら良い事がある?……、英語の諺ですよね?」

「よく知っているわね、私はこの言葉に救われたの」


 自分への何かかなのだろうか、と入り混じった感情で斜に構えてしまったが、未知へと少しだけ向いた玲香の目は、同情でも哀れみでもなく、まだ幼い未知でも理解できるほどに、玲香自らへと向けられていた。


「ごめんなさい、タイミングが悪かったわね」

「いえ、でも、私に向けられたものじゃないことだけは、理解できました。目がそう語っていました」

「ありがとう、気を使わせちゃったわね」

「ううん、でも、諺のどおりに素直にそうかも、とは言えないです」

「そうだとは思うわ、私だってダムの橋から飛び込んで、少しだけわかったんだもの」

「飛び込んだ!?」

「そうよ、ぴょんって満水の小さな湖にね、雪の散る12月だったわ」

「えっと……」

「不幸自慢じゃないの、でも、そのあと病気も見つかって、この首のあたりからの線はここまで続いてる」


 ハンドルから片手を放して、玲香は右の大腿部あたりを指さした。


「そんなに……」

「ええ、結構ひどかったのよ、リハビリだって大変だった。でも、そんな中でも良いこともあったわ、佳彦、ああ、夫だけど、ずっと殻に閉じこもっていた人が、私に全力を注いでくれて、しっかりと話し合えたの。私の嫌味も、私の愚痴も、私の責めも、なにもかも聞いてくれた。まぁ、良い旦那ではないけれど。でも、私が安らぎを得るためには、きちんとした時間が必要だった。とりとめもない話だけど、私たちはそれを知っている」

「う……、うん」

「私たちは長い時間を付き合うことになるわ、もちろん、未知ちゃんが嫌だってなれば話は別だけど、でも、私たちからは絶対に手放さないことだけは覚えておいてね」

「はい……」


 気持ちに足場ができた気がした。もちろん、不安は否めないけれど、少なくとも玲香の言葉にはしっかりとしたものが込められている。


「夫も、私も、未知ちゃんも、それぞれに抱えているものがある、甘い言葉なんて効かないくらい、辛い気持ちが渦巻く時があって、それに折り合いなんて簡単につけられないわ」

「そうだと思います」


 同情の言葉が、投げかけられる優しさが、憎くて堪らない時がある、向けられた視線が敵意のように見え、差し出された手が恐ろしいことさえも。

 これを理解することなど、おおよそ、普通に生きる人々には無理だろうとさえ思えるほどに。


「ただ、あなたの周りには少なくとも、それを知っている二人、いや、二人を足して一人前かな、それだけは覚えておいて」

「Every cloud has a silver lining.」


 未知は玲香の真似をするように呟き、声を漏らしながら嬉しそうに玲香が笑った。


 あれから1年が過ぎている。

 ベッド脇に置かれた失われた家族の写真と、その横に新しい家族の写真が、朝日を浴びて輝いている。

 屈託のない笑みを浮かべる、父、母、幼かった弟。

 ぎこちない笑みを浮かべる、玲香、未知、佳彦。

 

「未知ちゃん、もうすぐ朝ごはんよ!」

「すぐ行く!」


 今日も一日が始まる。

 銀の糸を紡ぐ一日が。


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Il filo d’argento che intrecciamo  (私たちが紡ぐ銀の糸) 八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子) @suzunokisuzunoki

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