第三章 最初の相談

 玄関の向こうに、人の気配があった。


 ドアスコープを覗くまでもなかった。

 金属の扉一枚隔てた向こう側で、誰かが小さく息を呑む音がする。


「……あの、すみません」


 もう一度、声がした。

 やっぱり、あの子だった。


 深呼吸をひとつしてから、俺はチェーンを外し、ドアノブを回した。


 キィ、と、蝶番が不機嫌そうに鳴る。

 わずかに開いた隙間から、冷たい廊下の空気が流れ込んできた。


 そこにいたのは、制服姿の彼女だった。


 紺色のブレザーに、白いシャツ。リボンはほどけかけていて、肩のあたりで落ちかけている。

 昼間見たときよりも、顔色が悪かった。

 蛍光灯の明かりが、頬の痣をいっそう浮き上がらせている。


「……どうした?」


 そう聞くと、彼女は一瞬だけ言葉に詰まり、唇を強く噛んだ。


「うるさかったら、すみません」


 昼間と同じ言葉だ。


 ただ、そのときと違っていたのは、彼女の手の震えだった。

 紙袋も持っていない。両手を前で組むようにして、ぎゅっと握り締めている。


「いや、うるさいとかじゃなくて」


 途中まで言って、俺は言葉を飲み込んだ。


 静かだった。

 さっきまで聞こえていたテレビの音も、笑い声も、叩く音も、今はまるでない。

 廊下には、蛍光灯の電気音だけが、じりじりと響いている。


「……入る?」


 気付いたら、そう口にしていた。


 見知らぬ男が、夜中に女子高校生を部屋に誘う。

 字面にすれば、通報されても文句は言えない状況だ。


 彼女は、一瞬だけ目を見開いた。

 それから、周りを見回す。

 階段の方、端の非常ベル、隣の部屋のドア。


 誰の気配もないことを確かめると、こくん、と小さく頷いた。


「……少しだけ、いいですか」


「ああ」


 俺はドアを大きく開け、サンダルを足先でどけた。


「散らかってるけど、気にしないで」


「いえ……すみません」


 彼女は靴を脱ぎ、小さく揃えてから、遠慮がちに部屋へ上がった。

 その動作だけは、妙に丁寧だった。


     *


 ワンルームの狭い部屋に、異質な空気が入り込んだ気がした。


 シングルベッドと、安いローテーブルと、テレビ。

 壁際には、作業着と私服が混ざったハンガーラック。

 床には、読みかけの漫画雑誌とコンビニのレシートが散らばっている。


 いつもは自分一人には十分な広さだが、もう一人入っただけで窮屈に感じた。


「そこ、座って」


 ローテーブルの向こう側を指さすと、彼女は膝を揃えて座った。

 背筋を伸ばし、両膝の上に手を置く。

 学校の面談でも、こんな姿勢で座るのだろうかと思うほど、きちんとした座り方だった。


 俺はキッチンの方へ行き、戸棚から紙コップを取り出した。

 やかんの水をそのまま注ごうとして、さすがにそれはやめ、ペットボトルの水を開ける。


「……水でいい?」


「あ、はい。ありがとうございます」


 紙コップを差し出すと、彼女は両手で受け取り、深く頭を下げた。

 その仕草で、袖口が少しずれ、手首の内側が見えた。


 薄い、線のような痕がいくつも走っていた。

 包丁でつけたにしては浅すぎる、小さな傷。

 爪で引っかいたような、赤い筋。


「……怪我?」


 気付けば、聞いてしまっていた。


 彼女は、ばつが悪そうに袖を引き下ろす。

 目線が泳ぎ、紙コップの水面を見つめたまま、かすかに笑った。


「大丈夫です。ちょっと、転んだだけで」


 その嘘の下手さに、胸のどこかがざわついた。


     *


 しばらく、他愛もない会話をした。


 どこの学校か、とか。

 部活はやっているのか、とか。

 将来の進路は決めているのか、とか。


 俺は、聞きながら、自分の口からそんな言葉が出ていることに驚いていた。

 普段、現場の若い連中と話すときでさえ、ろくに世間話をしないのに。


 それでも彼女は、問いかければちゃんと答えた。

 高校二年生であること。

 塾には行っていないこと。

 成績は中くらいだけど、理科は好きなこと。


 平凡な会話の行間に、ふとした沈黙が挟まる。

 そのたびに、扉一枚向こうの世界が、ぐらぐらと揺れるような感覚に襲われた。


 ここは俺の部屋だ。

 壁の向こうは、彼女の家だ。

 同じ四階の廊下を挟んだだけなのに、まるで別の国みたいに遠く感じる。


 紙コップの水が半分ほど減ったところで、彼女の方からぽつりと言った。


「あの……」


「ん?」


「さっきは、うるさくなかったですか」


 さっき、というのがいつのことか、聞くまでもなかった。

 深夜の一時過ぎ。

 「ごめんなさい」と繰り返していた声。

 男の怒鳴り声。

 肉を叩く音。


 俺は、ほんの一瞬だけ返事に迷い、結局こう言った。


「……ちょっと、聞こえた」


 嘘ではない。

 ただ、「ちょっと」で済む音ではなかった。


 彼女は、ふっと視線を落とした。


「すみません」


 口癖のように謝る。

 その「すみません」が、誰に向けられたものなのか、分からなかった。


 俺に対してなのか。

 壁の向こうにいる誰かに対してなのか。

 それとも、自分自身に対してなのか。


「君のせいじゃないだろ」


 そう言いながら、自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。


「……でも、私がちゃんとしてないから」


「ちゃんとしてないって、何が」


 問い返すと、彼女は少しだけ口を噤んでから、ぽつりと漏らした。


「ご飯、焦がしちゃったりとか。テストで赤点取ったりとか。

 兄ちゃんの部屋、ちゃんと片付けてないとか……」


 それが、理由なのか。


 そんなことで、人を殴っていいと、誰かが言ったのか。


「それで、ああいう……音がするのか?」


 言葉を選びきれずに尋ねると、彼女はかすかに頷いた。


「……父さん、怒ると止まらなくて。

 お母さんも、最初は止めてくれるんですけど……途中からは、一緒になって怒るから」


「一緒になって?」


「私が、甘えてるからだって」


 その言葉を聞いた瞬間、頭の奥で何かがきしむ音がした。


 甘えている。

 殴られている側が、甘えている。


 その理屈を、俺のどこかは知っていた。

 遠い昔に、似たような言葉を聞いた記憶がある。


 でも、それを今ここに引っ張り出すことはしたくなくて、喉元で無理やり飲み込んだ。


「学校の先生には?」


 彼女は、紙コップの縁を指でなぞりながら、小さく首を振った。


「前に……ちょっと言ったこと、あるんです。

 そしたら、先生が家に電話して、それで……」


 そこで言葉が途切れる。

 続きは、言わなくても分かった。


 家に電話が行き、親は怒る。

 「余計なことを言うな」「恥をかかせるな」。

 その分の怒りが、全部彼女の体に向かう。


「だから、もう誰にも言わないって決めたんです。

 でも、さっき……」


 そこで、彼女は顔を上げた。

 黒目がちの目に、蛍光灯の光が映る。

 その中に、微かに涙の膜が張っていた。


「さっき、廊下に、誰かいる気がして」


 誰か――


 俺のことだろうか。

 それとも、他に誰か。


「……助けてほしかったんじゃないのか」


 気付けば、そんな言葉が口からこぼれていた。


 彼女は、驚いたように目を見開き、それから、ゆっくりと視線をそらした。


「……分かんないです。

 助けてほしいのかどうかも、もう」


 そう言って笑った顔は、笑顔というには歪みすぎていた。


     *


「ねえ」


 しばらく沈黙のあと、彼女が口を開いた。


「もし、私がいなくなったら、静かになると思いますか」


 その問いかけに、背筋が冷たくなった。


「……いなくなる?」


「ここから。

 いなくなったら、多分、父さんたちも、落ち着くかなって。

 ご飯焦がす人もいないし。テストの点で怒られることもないし」


「それ、本気で言ってるのか」


 思わず声が荒くなった。

 彼女はびく、と肩を震わせ、すぐに「すみません」と謝る。


「ごめんなさい。変なこと言って。

 大丈夫です、死んだりとかはしないので」


 その「大丈夫です」は、まるで決まり文句のようだった。


 大丈夫じゃないときに限って、人は「大丈夫」と言う。

 そういうことくらい、俺にだって分かる。


「……もし、本当にどうしようもなくなったら」


 言葉を選びながら、ゆっくりと言った。


「うちに来いよ。

 こんなボロ部屋でよければ、逃げ込むくらいはできる」


 彼女はぽかんとした顔で俺を見た。


「そんな、迷惑じゃ……」


「迷惑かどうかは、俺が決める」


 自分でも、らしくないことを言っていると思った。

 現場では、誰かが仕事を押し付けてきたとき「それはお前の仕事だろ」と突っぱねてきたくせに。


 彼女は、しばらく黙ってから、かすかに笑った。


「……ありがとうございます」


 その笑顔は、さっきまでの引きつったものとは少し違って見えた。

 ほんの少しだけだが、肩の力が抜けたような顔だった。


「でも、多分、大丈夫です。

 父さんたちも、そんなに悪い人じゃないから」


 その「大丈夫」が、最後に聞いた彼女の「大丈夫」になるとは、そのときの俺はまだ知らなかった。


     *


 彼女が部屋を出て行ったのは、それから三十分ほどあとだった。


 ローテーブルの上には、空になった紙コップが二つ残っている。

 俺の飲みかけの缶ビールは、ぬるくなっていた。


「夜中にすみませんでした」


 玄関で、彼女はもう一度頭を下げた。


「気にすんな。……何かあったら、ノックしろよ」


「はい」


 短く返事をして、彼女は廊下に出た。

 ドアの隙間から、四〇二号室の前まで歩いていく後ろ姿が見える。


 紺色のスニーカー。

 揃えられた靴の隣に、そっと自分の靴を並べる。

 その動作まで、無駄がない。


 四〇二号室のドアが閉まる音を聞いてから、俺はゆっくりと扉を閉めた。


 鍵をかけ、チェーンを掛け、背中でドアにもたれる。

 さっきまでそこにいた空気が、じわじわと冷めていくようだった。


 その夜、四〇二号室からは、最後まで何の音もしなかった。


 それが、嵐の前の静けさだったのだと気付くのに、そう時間はかからなかった。


 数日後、彼女はもう、この廊下を歩かなくなる。


 俺が、その現実を受け入れるまでにかかった時間は、たったの一晩だけだった。


 ――そして、その一晩が、俺にとっての終わりであり、あの子にとっての始まりだったことを、今は知っている。

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次の更新予定

2025年12月26日 19:00
2025年12月27日 19:00
2025年12月28日 19:00

『四〇二号室の手記』 灯ル @Kairu-Tomoru

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