第二章 アパートの娘


 その子の名前を、俺が知ったのは、もっとずっとあとになってからだ。


 最初のうちは、「四〇二の子」としか認識していなかった。

 朝の出勤時、廊下ですれ違うと、ぺこりと頭を下げる。

 夜、階段を上がってくるときに鉢合わせても、同じように小さく会釈をする。


 いつも、笑うか、俯くか、そのどちらかしか知らない顔だった。


     *


 しばらくして、壁の向こうの「音」を、俺は少しずつ聞き分けられるようになっていった。


 テレビのバラエティ番組の笑い声。

 缶ビールを開ける音。

 油がはねる、フライパンの音。


 そして、その隙間に混じる、小さなものたち。


 叩かれる音。

 蹴られる音。

 何かが倒れる音。割れる音。泣き声。


 最初は、仕事の疲れのせいだと思っていた。

 現場で一日中機械の音を聞いていると、夜になってからもしばらく耳の奥で騒音が鳴り続けることがある。

 だから、あれもその一種だと、自分に言い聞かせた。


 けれどある夜、廊下に出てみる勇気を出したとき、その言い訳は使えなくなった。


 時計は、深夜の一時を回っていた。

 次の日も朝から現場だったが、どうしても眠れなかった。


 布団をかぶっても、耳をふさいでも、壁の向こうの音が止まらない。

 「うるさい」と怒鳴り込むほどの勇気はないくせに、イライラだけは募っていく。


 我慢できず、バルコニーの窓をそっと開けた。

 冷たい空気が流れ込み、狭い部屋の空気を一瞬だけ入れ替える。

 そのまま、スウェット姿にサンダルをつっかけ、玄関のドアを開ける。


 廊下は暗かった。

 古い蛍光灯が一本だけ、青白い光を落としている。

 四〇二号室の前まで歩いていくと、ドアの向こうから、はっきりと声が聞こえた。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」


 あの子の声だった。


 か細く、擦れた声が、ドアのわずかな隙間から漏れてくる。

 その上に、重なるように男の低い怒鳴り声があった。


「謝れば済むと思ってんのか!」「誰の金で飯食ってんだ!」


 肉を殴る鈍い音。

 何か細いものが空気を切る音。

 そして、そのたびに短く途切れる、息のような悲鳴。


 俺は、ドアノブに手を伸ばしかけて――そこで止まった。


 もし今、ここでインターホンを押したらどうなる。

 「すみません、うるさくて」と言ったら、そのあと、この部屋で暮らしていけるのか。

 あの男は、俺の顔を覚えるだろう。

 仕事の出入り時間を把握して、簡単に背後を取れる位置にいることも。


 そんなことを、矢継ぎ早に考えてしまった。


 数秒のことだったと思う。

 でも、その数秒のあいだに、音はぴたりと止んだ。


 耳鳴りが戻ってくる。

 廊下の蛍光灯が、じ、と鳴る。

 俺は、伸ばしかけた手を引っ込めた。


 インターホンにも、壁にも触れず、そのまま自分の部屋に戻った。

 ドアを閉める直前、もう一度だけ、振り返る。


 四〇二号室のドアの前には、紺色のスニーカーが、きちんと揃えて置かれていた。


 その靴紐が、片方だけほどけかけていることに気付いたのは、そのときだ。


 それくらい、結んでやればよかったのかもしれない。

 今になってみれば、馬鹿みたいな後悔だ。


     *


 翌朝、四〇二号室の前は、いつも通りだった。


 揃えられたスニーカー。

 ゴミ袋がひとつ。

 「チラシ投函厳禁」のテープ。


 ただ一つ違っていたのは、ゴミ袋の口から覗いているものだった。


 そこには、制服の替えのシャツらしきものが入っていた。

 白い布地に、茶色いシミがまだらについている。

 洗えば落ちたのかもしれないが、そのまま捨てられたようだ。


 茶色は、少し赤みがかった色をしていた。


 俺は視線をそらし、足早に階段を降りた。

 会社に遅刻するわけにもいかなかったし、なにより、あのドアの前に長く立っているのが怖かった。


 現場に着いてからも、頭の片隅で四〇二号室のことを考えていた。

 昼休み、コンビニの弁当をつつきながら、スマホで「虐待 通報 匿名」なんて言葉を検索する。

 出てきたサイトには、相談窓口の電話番号がいくつも並んでいた。


 けれど、そのどれにも電話はかけなかった。

 番号を押しては消し、押しては消し、それだけで昼休みが終わった。


 理由はいくつもある。

 見間違いかもしれない。大げさかもしれない。

 本当に虐待なんてしていないかもしれない。


 ――それに、俺には何の関係もない。


 そう言い聞かせるための言葉を、いくつでも思いつくことができた。


 今になって思えば、そのどれもが、あの子を見殺しにするための便利な言い訳だったのだが。


     *


 本格的に話すようになったのは、その週の金曜日の夜だ。


 その日は珍しく現場が早く終わり、まだ外が明るいうちにアパートに帰り着いた。

 スーパーで半額シールの貼られた惣菜を適当に買い込み、コンビニの缶ビールを片手に階段を上がる。


 四階の踊り場まで来たところで、また、彼女とぶつかりそうになった。


「あ……」


 四〇二号室の前で、紙袋を抱えたまま立ち尽くしている。

 制服のリボンが少し曲がっていて、左の頬に薄い黄緑色の痣が浮かんでいた。


 昨日まではなかった色だ。


 彼女は俺の顔を見ると、一瞬だけびくっと肩を揺らした。

 その仕草に、俺も反射的に謝る。


「ごめん。……大丈夫?」


「あ、すみません……邪魔ですよね」


「いや、そうじゃなくて」


 言いながら、自分でも何を言いたいのか分からなくなる。

 頬の痣を指さすわけにもいかない。

 かといって、見なかったふりをするには、傷が新しすぎた。


「……買い物?」


 結局、そんなありきたりな言葉しか出てこなかった。


「はい。あの……」


 そこで、彼女は少し迷うように視線を動かした。

 廊下の端、階段の方、他の部屋のドア。

 誰もいないことを確かめるように、一通り見回したあと、小さな声で言った。


「ここで立ち話したら、怒られるので……」


 その言い方が、妙に引っかかった。


 俺は、缶ビールの袋を持ち直しながら、口を開いた。


「よかったら、うちで荷物置いてく? ……部屋、狭いけど」


 自分でも、何を言っているのかと思った。

 見知らぬ男の部屋に誘うような真似をしている、と気付いたのは、言ってからだ。


 彼女は驚いたように目を見開いた。

 ほんの一瞬だけ、躊躇する気配があったが、すぐに小さく首を振る。


「いえ、大丈夫です。すぐ入るので……」


 そう言って、紙袋を抱え直す。

 その手の甲にも、小さな傷がいくつか走っていた。


「……もし、また、うるさかったら」


 彼女の声が、そこで急にか細くなった。


「うるさかったら、すみません」


 それだけ言うと、彼女はドアを開けて中に消えた。

 ドアの隙間から、濃い油のにおいと、タバコの煙が一気に流れ出してくる。


 俺はしばらく、その匂いの中に立ち尽くしていた。


 うるさかったら、すみません。


 それは、本来なら、壁を叩かれた側が言うセリフじゃないのか。


     *


 その夜も、最初はいつもと同じだった。


 テレビの音と笑い声。

 それに紛れて、何かを叩きつける鈍い音と、押し殺した声。


 耳をふさいでも、壁越しの振動が骨に伝わってくる気がした。

 時計を見ると、日付が変わる少し前だった。


 ――まただ。


 そう思ったところで、音が急に止んだ。


 テレビの音も、怒鳴り声も、叩く音も、まとめてスイッチを切ったみたいに消える。

 廊下の蛍光灯の、じりじりという電気音だけがやけに大きく聞こえた。


 代わりに、俺の部屋の中で、スマホのバイブレーションがひっきりなしに震えた。

 会社からの連絡、現場のグループライン、どうでもいい広告。

 それらを見ては消し、見ては消し、気付けば日付が変わっていた。


 電気を消し、布団に潜り込む。

 耳の奥には、さっきまでの「ごめんなさい」という声だけが残っている。


 その声を追い払うように目を閉じた、そのときだった。


 コン、コン、と。


 独特の、廊下の金属ドアを指で叩くような音がした。


 四〇三号室のドアだ。

 寝ぼけた耳にも、それが自分の部屋の方からだとすぐ分かった。


 もう一度、同じ音がする。


 コン、コン。


 それから、小さな声。


「……あの、すみません」


 聞き間違えるはずもない。

 あの子の声だった。


 俺はようやく、布団をはねのけて立ち上がり、暗い部屋の中で玄関の方へ歩き出した。


 このとき、ドアを開けたことが、正しかったのかどうかは、今でもわからない。


 ただ一つだけ言えるのは――

 あの夜が、すべての始まりだったということだけだ。

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