『四〇二号室の手記』
灯ル
第一章 生きているのは、私だけです
――この手記は、誰に読まれるのだろう。
紙とペンを渡されたとき、最初に浮かんだのはそれだった。
弁護士にか。裁判所にか。あるいは、どこかの大学で犯罪心理を研究している誰かにでも回されるのかもしれない。
けれど、正直なところ、そんなことはどうでもいい。
ここに書きつけるのは、言い訳でも、反省文でも、罪状への異議申し立てでもない。
それだけは、最初にはっきりさせておきたい。
俺が人を殺したのは事実だ。
新聞に載ったあの見出し――「アパート一家四人殺害事件 容疑者逮捕」。
あれに書かれていたことの大半は、本当のことだ。
俺は、あの部屋にいた家族を、この手で殺した。逃げる時間も、反省する時間も与えずに。
だから、「どうしてそんなことを?」とか「本当にあなたがやったんですか?」とか、そんな質問には答えない。
やったかやっていないかで言えば、やった。
そこに嘘はない。
それでも、書かずにはいられないことがある。
こうして独房の中で、何度も何度も夜を越えていくたびに、
あのアパートの、薄い壁と、長い廊下と、四〇二号室の前で立ち止まる自分の姿が、頭から離れてくれない。
あの夜、俺の手を引いたのは――生きている人間じゃなかった。
……ここまで書いて、ペンを置いた。
指先が、少し震えている。寒いからじゃない。
この部屋は妙に温い。窓も小さく、空気はよどんでいるのに、体は冷え切らない。
代わりに、胸の奥だけが、氷水を飲み続けているみたいに重い。
看守に頼めば、暖房の温度を少しだけ上げてくれるかもしれない。
でも、そうしてぬくぬくと眠ってしまうのが、どうにも怖いのだ。
目を閉じると、すぐにあの子が来る。
*
俺は三十二歳になったばかりだ。
普通の会社員だった、と言っても、今さら誰も信じないだろうか。
地方の小さな建設会社で、現場監督をしていた。
忙しい割には給料も安く、将来の見通しなんてものもなかったけれど、それでもなんとかやっていた。
一年前の春、あのアパートに引っ越した。
築四十年、エレベーターなしの五階建て。錆びた階段を上がるたび、足元が軋む音がする。
不動産屋には「多少音はしますけど、住んでおられる方はみなさんいい人ですよ」と笑われた。
家賃の安さに釣られて、深く考えもせず契約した。
俺が住んでいたのは四階の四〇三号室。
隣には一人暮らしの老人がいて、向かいが――あの子の家だった。四〇二号室。
初めてその部屋の扉を見たときのことを、今でもはっきり覚えている。
ドアの表面に、自転車のペダルでこすったような細い傷がいくつも走っていて、郵便受けのところにだけ新しいテープが貼られていた。
「チラシ投函厳禁」。
その文字だけが真新しくて、周りの古い茶色いペンキから浮いていた。
毎朝、仕事に向かうためにドアを開けると、向かいの四〇二号室の前には、いつも同じスニーカーが一足そろえて置いてある。
紺色の、安そうな運動靴。踵の部分が少しすり減っていて、白いゴムの部分に黒い線が入っている。
学生が履き潰しながら使うような、ごくありふれた靴だ。
それが、あの子との最初の接点だった。
*
あの子は、最初から痣だらけだったわけじゃない。
いや、本当はそうだったのかもしれないが、少なくとも俺の目にはそう見えなかった、というべきか。
初めてまともに顔を合わせたのは、引っ越しから数日後のことだ。
夜勤明けでふらふらになりながら階段を上がっていくと、四階の踊り場のあたりで誰かとぶつかりそうになった。
「すみません!」
高い、少し震えた声。
見下ろすと、紺色のスニーカー。その上に、膝までのソックスと、制服のスカート。
顔を上げた彼女は、まだあどけない、高校生くらいに見えた。
肩までの髪をひとつに結んでいて、前髪が少しばらついている。
目は大きいが、どこか怯えたように周囲をうかがっていた。
「いや、こっちこそ……」
眠気にぼんやりした頭でそう返しながら、俺は彼女が抱えている紙袋に目をやった。
スーパーのロゴが入った袋から、安売りの卵パックと、もやしの袋が覗いている。
「四〇二の人?」
なんとなく口をついて出た言葉に、彼女は驚いたように瞬きをした。
「あ、はい。……あの」
そこで言葉が途切れる。
何か言いたげにも見えたが、彼女はすぐに視線を落とし、「すみません」とだけ繰り返して、俺の脇をすり抜けた。
そのとき、ふっと鼻をかすめたのは、揚げ物の油と、湿った畳の匂いが混ざったような、重たいにおいだった。
アパート全体に染みついた、古い建物のにおい――そう思おうとした。
でも、本当は違ったのだと、今はわかる。
*
ここまで書いて気付いたが、これは手記というより日記に近いのかもしれない。
事件の前のことを書いてどうする、と誰かに突っ込まれそうだ。
けれど、俺には順番にしか話せない。
あの子と出会った日から、あの夜のことまでを飛ばして語るのは、うまく息継ぎができないまま泳ごうとするようなものだ。
だから、もしここまで読んでくれている人がいるなら、もう少しだけ付き合ってほしい。
これから書くのは、俺がまだ「普通の住人」をやっていられた頃の話だ。
夜になると、アパートの壁は薄くなる。
そう感じ始めたのは、その数日後のことだった。
テレビの音、風呂のシャワーの音、階段を上り下りする足音――
昼間は気にも留めない生活音が、真夜中になると、壁を通して耳の奥に直接入り込んでくる。
その中に、どうしても聞き慣れない音が混ざっていた。
湿った布で、何かを何度も叩くような、鈍い音。
押し殺した声。
誰かの「ごめんなさい、ごめんなさい」という、途切れ途切れの言葉。
耳をふさいでも、消えてくれなかった。
俺の部屋の右隣は空き室だった。
左の老人の部屋から、そんな音が出るとは考えにくい。
階下の住人なら、ここまで響くはずがない。
つまり、その音は――廊下を挟んだ向かい側、四〇二号室から聞こえていた。
あの夜、俺は布団の中で目を閉じながら、何度も心の中で言い訳をした。
きっとテレビだ。
映画の音かもしれない。
家族同士の喧嘩に他人が口を出すべきじゃない。
そうやって、自分に言い聞かせて、朝を待った。
あのとき、ドアを開けていれば。
壁を叩いて、「うるさい」と怒鳴るだけでもしていれば。
少なくとも、あの子はあんな死に方をしなかったかもしれない。
――そう考えるのは、もう、習慣みたいなものだ。
後悔というのは、一度始めると止まらない。
独房の中では、とくに。
*
「始めてください」と言ったのは、取調室の向こう側に座っていた男だった。
薄いスーツに、疲れた目をした刑事。名前はとうに忘れた。
真っ白な部屋。窓のない壁。録音機の赤いランプ。
その前に座らされて、何度も同じ質問を繰り返された。
『どうして殺したんですか』
答えは、いまだに見つからない。
俺があの家族を殺した理由を、法律の言葉で説明することはできるかもしれない。
動機、経緯、計画性の有無。
復讐心、義憤、心神耗弱――そういう言葉を並べれば、きっと立派な供述書になるだろう。
だが、それは本当の理由じゃない。
あの夜、俺はひとりで四〇二号室のドアを開けたわけじゃない。
俺の背中を押したのは、あの子だ。
俺の手を握っていたのも、あの子だ。
信じてもらえないことは分かっている。
だからこそ、この手記を書く。
俺が殺したのは、あの家族だ。
けれど、俺をここまで連れてきたのは――あのアパートの、四階の廊下で、いまもスニーカーを揃えている、ひとりの娘だ。
生きているのは、もう俺だけのはずなのに。
夜になると、独房の扉の向こうから、あのスニーカーの足音が聞こえてくる。
ぺた、ぺた、と。
あの古い廊下を歩いていたときと、まったく同じリズムで。
今夜も、もうすぐ聞こえてくるだろう。
だから、急がなければならない。
きちんと順番に、あの日までのことを書いておかなければ。
――これは、俺とあの子の、復讐の話だ。
誰に許されなくても構わない。
少なくとも、俺たちは、見て見ぬふりをされ続ける側で終わりたくなかったのだ。
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