銀杏党の崩壊
ナキヒコ
銀杏党の崩壊
「フクちゃん。今朝、すごく不思議なことがあったの」
マリアが不思議というからには、よほどのことだろう。
「馬に乗ってたんだけどさ」
マリアなら、朝から遠乗りをしていても不思議はない。
「公園で銀杏を煎っているお婆さんがいて……」
遠乗りをする女子高生がいるんだから、早朝に公園で銀杏を煎るお婆さんがいても不思議はない。
「私、びっくりして、声をかけたの」
「何にびっくりしたの?」
「え、だってそのお婆さん、ふんどし一丁だったのよ?」
「それ、おじいさんじゃないかな」
「それで、不思議だったのが……」
「まだあるんだ?」
クラスの男子たちが噂話に興じている。
「なんか、暑い暑いって言いながら豆を洗う妖怪が出るらしい」
「もう秋だぜ?」「妖怪の世界に季節があると思うか?」「カレンダーくらいは読むだろう」
特に聞き耳をたてたわけではないが、自然と耳に入る。
窓の外に見える山は、秋の色使いだ。朝夕、もう肌寒い。
早朝に裸で銀杏を煎れば、寒くても油がはねて熱いだろう。
今朝聞いた、マリアの話の結末をまた思い出してしまう。
すこし胸焼けがする。
「確かに私は、お肉もお魚も抜いてるけど」
成田さんのお弁当はカラフルだ。そして全て植物由来。
ダイエットの相談をしている。こういう点で、マリアは頼りにならない。
「計算すれば、無理に抜かなくてもいいよ。美味しく痩せないとね。でも、福田さんはダイエットしなくて、大丈夫だと思う」
成田さんの優しいフォローは、分かっていても耳に心地良い。
「ありがとう。でも、もうすぐ文化祭だし」声を潜めて言う。「ここだけの話、何か劇の役に立候補しようと思ってるんだ。痩せた方が選択肢が多いし」
これはマリアにも知らせていない、密かな決意だ。成田さんはじっと目を見て、頷いてくれた。
「目標があるなら話は別。なんでも聞いて。あ……」
成田さんは教室を見渡す。
「新庄さんには聞かないの? 一番の親友でしょう。あの子いつも、色々つやつやで輝いてる」
昨日ダイエットを相談したら、マリアは「フクちゃんは小太りなだけ。デブじゃないと思うわ」と言い放った。
「この件で、あの子のことは忘れて。それで……ご飯の代わりに、大豆とか豆類がいいとも聞くんだけど、どうなの?」
「お豆は確かにいいよ。カロリーさえ管理できれば」
突然、教室に悲鳴が上がる。
慌ただしい足音。女子生徒が数人、教室を出て行った。周囲は騒然となる。
いつも空気の読めない沢村君が叫んだ。「くっせぇ! なんだこの匂い」
フクちゃんは見た。
教室の入り口でマリアが、何かのナイロン袋を手にさげて、にっこり笑っている。
「もらってきたわよ、フクちゃん! お豆」
「銀杏って、ダイエットにいいの?」成田さんに聞く。
「カロリー高いよ」彼女は、普段通りの顔で答える。
「マリアちゃん、それいらない」
マリアの身体が二回りくらい萎んだ気がした。肩を落とした背中が去って行く。
「でも、美味しいよ」成田さんが囁く。
フクちゃんはマリアを追って走った。
銀杏はみんなで食べた。
翌日から、一人、二人、三人と銀杏の袋をさげる生徒が増えていく。
みんな、「もらった」と顔を輝かせる。そして、「早起きもできるようになった」とキラキラした目で言う。
銀杏は美味しいが、その老人に会うのは危険に感じた。
マリアに誘われるが、いつも断っている。
いつの間にかクラスは、二つの派閥に分かれていた。
銀杏を食べる派と食べない派。六対四程度の比率で、銀杏摂取勢力に勢いがある。
昼休みになると、二大勢力は綺麗に教室の左右に分かれ、教卓前の一列が緩衝地帯として空席になる。
先日、食事時に匂うことから、「窓を開けろ」と食べない派の要求があった。
銀杏党は寒いとして拒否し、それ以来、両者の対立は激化している。
そして、党の中でも争いの兆しが見え始めていた。
フクちゃんが属する、教室で銀杏を分けてもうらだけの在家信者勢力。そして、朝老人の前に並ぶ原理主義者の間の溝が深まりつつある。配給量をめぐってのことだ。
昼休みにぼんやり豆を囓っていると、また、近くの席の男子生徒の話が耳に入る。
「もちろん、六尺さ」「馬鹿な……越中に決まっているだろう」「俺は六尺に変えたよ」「貴様、裏切るのか」
三人は何かで言い争っている。
「ねえマリアちゃん、六尺って何?」隣のマリアに尋ねる。
「ふんどしのブランドよ」
あの三人の男子生徒は、銀杏党、原理主義者の中でも指導的立場。
彼らの中ですら内紛だ。
曖昧な主権で始まる政治組織は、最終的には独裁に堕する。
これも、人類の歴史に習い、同様の決着をすると見る。
「越中がいいと思うけど」マリアの、ぽつりとした呟きに肌が粟立つ。
「……まさか、マリアちゃん?」
「何?」
「いや、なんでも……」
クラスの何割か、すでにあの特異なインナーに変わっている可能性がある。
急に気温が下がった気がする。
「もういやあぁぁぁぁぁぁ!!」
普段大人しい安原さんが絶叫したのは昼休みだ。
例によって教室は銀杏の匂いで満たされている。
「銀杏臭いって、彼氏に振られたのよぉぉぉぉ」
越中推しの男子生徒が立ち上がり、冷然と言い放つ。
「銀杏と恋愛に因果関係は認められない。この間のホームルームでそう決議されたはずだ」
「多数決の横暴だろうが!」
反対派から声が上がる。次々と生徒が立ち上がり、意見を戦わせ始める。
「何を食べるかは自由だ!」「他人の迷惑を考えろ」「教室はパブリックスペースではない」「レトリックだ!」
フクちゃんは、頬杖をついて言い争いを眺める。
目の前にはお茶のペットボトルが一本。
ダイエットのために、昼はお茶だけに決めていた。そして銀杏にも飽きた。
「マリアちゃん」
隣のマリアの髪に手をやる。ゆっくりと撫でる。
「……なーに、フクちゃん」
「あの動画、みんなに見せてあげたら? もう銀杏いいでしょ」
「分かった」
マリアはナイロン袋を下げ、銀杏を食べながら教卓に歩いて行った。
「みんな! これを見て」
マリアがスマートフォンを掲げ、動画を流す。
初めてじっくり見る。動画には、ふんどし一丁の老人が銀杏を煎る姿が鮮明だ。
その老人は、するりとふんどしをはずすと、鍋の上でぞうきんのように絞った。
鍋から白煙が立ち上る。
老人の嗄れた声がスマホから教室にこだまする。
「ほんにええ油よ」
クラスは静まり返った。
マリアが銀杏を噛む音だけが続く。
「ほんと、お肌つるつる。不思議よね」とマリアが言う。
誰かが吐いた。それは連鎖した。
翌日から、誰も銀杏を持ってこなくなった。
フクちゃんは窓の外をぼんやり眺めている。
もう紅葉も終わりだ。
耳に、小さな声が届いた。「俺も六尺にしたよ」「同士よ……」
三人の男子生徒は肩を組んで教室を出て行く。
党は滅んだが、別のものが地下に潜り、残ったようだ。あれは無視する。
とりあえず、文化祭の出し物が『銀杏茶屋』になることは阻止できた。
マリアが教室に入ってきて隣に座った。
「あのね、フクちゃん。今朝、不思議なことがあったの」
銀杏党の崩壊 ナキヒコ @Nakihiko
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