【第5章】恐怖からの選択

夜明け前、観測局管理塔の上層で、術式盤が静かに起動した。


魔術陣は眩い光を放たない。

警告音もない。

ただ、淡い線が重なり合い、円環を描き始めるだけだ。


境界封印術式――

即時発動ではない。

広域干渉を避けるため、進行は段階式。

全工程、予定所要時間は一日。


レイナは術式盤の前に立ち、表示された数値を見下ろしていた。


――結界進行率:三%

――境界安定度:良好

――外界干渉率:低下中


「……開始ね」


誰に言うでもなく、そう呟いた。


結界は“発動”ではなく、“運用”だった。

一度始めれば、途中で止めることはできない。

停止手順は存在しない。

あるのは、完了か、破綻か――それだけだ。


朝。


外縁監視所では、観測員たちが持ち場についた。


森は、静かだった。

鳥の声はない。

だが、風はある。

葉も揺れる。


測定器の数値は、すべて基準内。


「……正常ですね」

「ええ。昨日と変わりません」


誰もが、同じ言葉を繰り返した。


異常はない。

記録にも残らない。


それでも、誰一人として“安心”はしていなかった。


昼。


術式進行率は四割を越えた。


境界線に沿って配置された魔術杭が、ゆっくりと位相を固定していく。

空間に“壁”が作られているのではない。

外と内の流れが、少しずつ分離されていく。


レイナは報告書を確認しながら、ふと手を止めた。


被害報告、なし。

住民影響、なし。

マナ濃度、変化なし。


すべてが、正しい。


――それでも。


「……結界は、守るためのもの」


それを口にした瞬間、言葉の裏側が胸に刺さった。


守るとは、隔てることだ。

理解しないことを、選ぶことだ。


同じ頃。


外縁監視所の影で、コジローは腰を下ろしていた。


空気は変わらない。

だが、肌で分かる。


「……蓋か」


隣でララァが、淡々と告げる。


「境界流通率、低下」

「森深部のマナ総量、増加」

「人は隔絶を選んだか」

「はい、セグメント化です」


コジローは、森を見た。

怒りもない。

抵抗もない。


ただ、静かに“内側”へ収束していく気配。


「……選ばれたわけじゃない」


誰にともなく、言った。


「人が、閉じたんだ」


夕刻。


結界進行率、八割。


境界線の外側では、何も起きていない。

町は通常通り。

商人は声を張り、子どもは走り回る。


森が変わっていることを、誰も知らない。


管理塔では、最終工程の準備が進められていた。


レイナは指示を出し終え、ふと窓の外を見た。

遠く、森の方角に目をやる。


「……ごめんなさい」


それは管理官としての言葉ではなかった。


夜。


境界封印術式、最終段階。


――結界進行率:九八%

――境界固定、開始


術式盤が、静かに光を収めていく。


最後まで、異常は出なかった。


レイナは深く息を吸い、そして吐いた。


「……完了」


――境界封印、確定。


記録はそう残る。

正常に。

問題なく。

完全に。


その夜、森は外界から切り離された。

破壊はない。

悲鳴もない。


ただ、流れが止まっただけだ。


人はそれを、

「管理の成功」と呼ぶ。


そして、本当に壊れたものの名前を、

まだ誰も知らなかった。


午後、王都アルヴェリア。


白金石で組まれた円形の議場に、柔らかな光が満ちていた。


黄金評議会。


レスタント王国において、

王権・宗務・行政・軍・学術・冒険者――

すべての「世界を定義する声」が集められる場だ。


重厚な扉が閉じられ、ざわめきが収まる。

中央の卓に、議題が掲げられた。


第十議題:

カルナ方面、ベゼルの森における異常兆候および

境界封印術式の発動について


口火を切ったのは、シープス=カーヴェルン伯爵だった。

観測局を統括する男。


姿勢は崩さず、声は落ち着いている。


「本日未明、カルナの町より緊急報告が入りました。

 外縁部の植生変化、局所的マナ滞留、冒険者の未帰還――

 総合的に判断し、観測局の権限において

 境界封印術式を発動しております」


一瞬、議場に沈黙が落ちた。


「進行は段階式。一日をかけて完了予定。

 現在のところ、被害報告はありません」


淡々とした報告だった。

数字も、判断基準も、すべて揃っている。


だが、その静けさを破ったのは、白衣を纏う女の声だった。


「――少し、よろしいかしら」


イザベル・フォーン戴司祭。

宗務局を代表する高位聖職者だ。


「“今朝発動”とおっしゃいましたね、伯爵」


「はい」


「星読みの報告が、昨夜、私の元に届いています」


議場の空気が、わずかに張りつめる。


「箒の星が現れました。

 周期外。記録上、重大な転換点と重なる兆候です」


彼女は一度、息を置いた。


「そのような時期に、

 我々に相談もなく、森に境界封印術式を施すとは――

 どういうおつもりですか?」


責める口調ではない。

だが、明確な不快感があった。


シープスは表情を変えない。


「戴司祭。

 結界は観測局の定められた対処手順です。

 兆候は十分。緊急性もありました」


「“十分”とは、誰の基準で?」


「観測値です」


短い応酬だった。


だが、議場の何人かが視線を交わす。


そこに、別の声が重なった。


「伯爵の判断は、妥当だ」


トマス・ウェリントン伯爵。

貴族院代表にして内政局を束ねる男だ。


「民に被害が出てからでは遅い。

 異常の可能性がある以上、封じるのは当然だろう」


「同感だ」


続いたのは、アラン・リュービク公爵。

広大な領地を持つ実務派の貴族だ。


「危険の芽は、早めに摘むべきだ」


言葉は穏やかだが、方向性は明確だった。

管理と予防。


イザベルは視線を伏せ、ゆっくりと首を振った。


「私は“封印するな”と言っているのではありません」


「……?」


「ただ、

 森という存在をどう扱うか、

 その意味を、誰も問い直さずに進めることを

 危惧しているのです」


議場に、再び沈黙。


その沈黙を破ったのは、場違いとも言える低い声だった。


「外の世界に、俺たちの常識は通用しねえ」


冒険者ギルド代表、トビアス・ハント。

背もたれに寄りかかり、腕を組んだまま言った。


「森は資源でも、土地でもねえ。

 封じたからって、問題が消えるとは限らねえ」


誰も返事をしなかった。

否定もしない。

肯定もしない。


その一言は、議論を止めるものではなかった。

ただ、そこに置かれただけだ。


やがて、議長役が咳払いをする。


「観測局の判断は、承認する」

「境界封印術式は、予定通り完了させる」


反対は出なかった。

異議はあった。

疑問もあった。


だが、決定は覆らない。


黄金評議会は、

いつも通り、正しく終わった。


会議が散会し、議場が空になる。


残ったのは、記録と、決定と、

言葉にされなかった違和感だけだった。


その頃、森では――

誰も、何も、語っていなかった。

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『舞台は世界の片隅で』――世界は選ばず、ただ流れる 風磨然世 @zvake

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