【第4章】夜に残らない兆し

夜の管理塔は、音が少ない。


昼の喧騒が嘘のように引き、残るのは歯車の回る規則正しい音と、外壁をなぞる風の気配だけだった。


レイナは執務机に向かい、最後の観測報告を確認していた。

皮紙に並ぶ数値は、どれも基準値の内側に収まっている。


異常なし。

今日も、観測上は。


封をして書類を重ね、レイナは息をついた。

管理官としての一日は、ここで終わるはずだった。


そのとき、部屋の隅で夜勤に入っていた観測員の一人が、独り言のように呟いた。


「……そういえば、今年は鳥が来ませんね」


レイナの手が、わずかに止まった。


「鳥?」


観測員は、しまった、という顔をする。


「あ、いえ。記録するほどのことじゃないんですが……この時期なら、渡りの群れが見えてもいい頃で」


確かに、項目にはない。

鳥の数は、境界観測の対象外だ。


「……そう」


レイナは頷き、念話具を手に取った。


『こちら管理官レイナ。境界付近の状況を確認します』


『こちら異常ありません』


いつもと同じ、淀みのない返答。


「最近、ネズミや地中性の生物を見ましたか?」


一拍の沈黙。


『……そういえば、あまり。ですが、季節の変わり目ですし』


理由としては、十分だった。


念話を切り、レイナは椅子に背を預けた。


観測値は正常。

確証はない。


だが――鳥はいない。

地中の生き物も、姿を見せない。

そして、消えた五人の冒険者。


それらはどれも、規則にも記録項目にも含まれていない。

含めてはいけない類の、感覚の揺らぎだった。


(……森が、静かすぎる?)


だが、そう書くわけにはいかない。

森の静けさは異常ではない。

むしろ、安全の指標だ。


レイナは首を振った。


翌朝。


境界付近の観測員エルドから、簡潔な報告が届いた。


――未帰還の冒険者五名、生存。

――外縁部で発見。

――観測上の異常なし。


そして、付け足すように一文。


――発見者:F級冒険者 コジロー。


レイナは、眉をひそめた。

至急、ギルド長ダグラールに念話を繋ぐ。


「F級の……コジロー?」


『ああ、万年Fだな。薬草採取と雑用専門だ』


「そんな人物が、森の外縁に?」


『さあな。依頼は管理するが、行動までは縛らねえ』


もっともな返答だった。


「最近、鳥や小動物が減っているという話、聞いていない?」


一瞬、笑い声が混じる。


『鳥か。まあ、森の村じゃ家畜の子どもが少ないって話はあるが……不作ってほどでもねえ』


家畜の子ども。


レイナの胸に、また小さな引っかかりが生まれた。


「……そう。ありがとう」


念話を切る。


(全部、偶然で説明できる)


森が静か。

生態が偏る。

冒険者が無傷で倒れている。


どれも、異常ではない。


「……誰か二人、視察に向かわせて」


自分は、行かない。

今は、その必要はない。


それが、レイナの判断だった。


一方、境界の外縁監視所。


エルドは、森を見つめたまま動かない男に声をかけた。


「あなたは……依頼で?」


コジローは、しばらく森から目を離さず、答えた。


「森を、見にね」


嘘ではない。

だが、真実でもない。


五人の冒険者が、次第に意識を取り戻し始める。

エルドはそちらへ駆け寄り、介抱を始めた。


振り返ると、コジローはまだ、森を見ていた。


夜に起きた兆しは、誰の記録にも残らなかった。


だがその夜、森は確かに、何かを巡らせ始めていた。


翌朝、早馬の蹄音が外縁監視所の門前に響いた。

観測員は到着するなり、馬を預けることも忘れて森へ向かった。


空気は澄んでいる。

霧もない。

風も、いつも通りだ。


――異常はない。


少なくとも、最初はそう見えた。


外縁部の林に踏み込んだ瞬間、観測員は無意識に足を止めた。


木々が、記憶よりも近い。

いや――大きい。


一本一本が、わずかに太い。

枝の張り出しが広く、葉の重なりが密だ。


測定用の標識と比べて、成長量は誤差の範囲を超えている。


「……こんなだったか?」


記録を頭の中で反芻する。


外縁部の植生は、長年ほぼ一定だったはずだ。


視線を奥へ向けた。


森の深部。

立ち入り禁止区域の向こう側。


そこで、観測員は息を呑んだ。

同じ森とは思えなかった。


幹の太さは倍。

枝は絡み合い、空を覆い、影が落ちない。

高さも――明らかに異常だ。


「……成長、じゃない」


これは、別の何かだ。


観測員は一歩、さらに踏み出した。

境界標識が視界の端に入る。


その瞬間、こめかみに鈍い痛みが走った。


頭痛だ。

軽いが、無視できない。


胸の奥が、ざわつく。

呼吸が、わずかに浅くなる。


観測員は即座に測定器を確認した。


数値が跳ね上がっている。

外界基準の――二倍以上。


「……っ」


これ以上近づけば、記録を残せない。

そう判断するのに、時間は要らなかった。


観測員は踵を返し、来た道を駆け戻った。


頭痛は、境界を離れるにつれて徐々に引いていく。


脱出できたのは、気づくのが早かったからだ。

それだけは、はっきりしていた。


報告を受けたレイナは、しばらく言葉を失っていた。


数値は正常だった。

観測網にも、異常は記録されていない。


だが――森は、変わっている。


「……私たちは、見誤った」


誰に向けた言葉でもなかった。

管理官としてではなく、一人の人間としての呟きだった。


判断は、間違っていなかった。

記録も、規則も、すべて守った。


それでも、結果はこれだ。


レイナは顔を上げ、即座に上層部への連絡を指示した。


「境界封印術式の使用許可を要請します」


声は冷静だった。


だが、胸の奥では、何かが崩れていた。


結界は、防ぐためのものだ。

管理し、守り、制御するための――最後の手段。


それを使うということは、

もはや“理解する”ことを諦めたという意味でもあった。


同じ頃。


外縁監視所の近くで、コジローは森を見ていた。


昨日までとは、穏やかに違う。


「……まだ、もっている」


誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。


隣にいたララァが、即座に解析を始める。


「循環、健在」

「マナ確度、正常」

「ただし――」


一拍、間が空く。


「外部への流通は微動」


コジローは目を伏せた。


「守られた、ってやつか」


森の中で、アーニャは畑の中央で立ち尽くしていた。


鍬を持ったまま、動かない。

風が吹いても、葉が揺れても、彼女は耳を澄ませたままだ。


――何も、聞こえない。


昨日まで、確かにあった。

土の流れ。

根の囁き。

巡る気配。


それが、消えている。


「……我慢してるの?」


ぽつりと、そう言った。


そして、応えるように鉢植えの託されたものが仄かに明滅した。


町ではその日、封印術式の準備が始まった。


記録上、異常はない。

被害者もいない。

すべては、管理の範囲内だ。


だが、森は確かに変わっていた。

正常値のまま。

静かに。


人は取り返しのつかない方向へ。

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