【第3章】森が応えた日(回想)
――二か月前。
森の深部、フォート・アトラスの外周に広がる畑では、
朝の光を浴びて土が静かに湯気を立てていた。
夜露を含んだ腐葉土は柔らかく、
踏みしめるたびに微かな音を立てる。
アーニャはその中央で、黙々と鍬を振るっていた。
小柄な体に不釣り合いなほど慣れた動きで、
土を返し、根の張り具合を確かめ、葉の色を見る。
「水は、今日は控えめでいいですね」
背後から、落ち着いた声がした。
振り向くまでもなく、アーニャは頷く。
「うん。昨日、ちょっと飲みすぎた感じがする」
そこに立っていたのは、
艶のない黒い身体を持つ人型の存在――ララァだった。
金属とも陶器ともつかない表面は朝光を反射せず、
影のように畑に溶け込んでいる。
この場所では、誰も彼女を奇異の目で見ない。
少なくとも、アーニャは一度も疑問を口にしたことがなかった。
「土壌内マナ循環、安定しています。成長速度、想定以上」
その報告に、
少し離れた場所で工具を片付けていたコジローが顔を上げる。
「無理させてないか?」
「してないよ」
アーニャが即座に答えた。
その声は、確信に満ちている。
「この畑、ちゃんと呼吸してる」
コジローはそれ以上、何も言わなかった。
彼女がそう言うとき、それは感覚ではなく事実だった。
フォート・アトラスは、森の深部に築かれた拠点だ。
外界から切り離された場所にありながら、
森を壊すことなく、むしろその一部として存在している。
畑も同じだった。
奪うためではなく、巡らせるためにある。
そのときだった。
アーニャの手が、ふいに止まった。
鍬を持ったまま、彼女は顔を上げ、森の奥を見つめる。
畑の向こう、
樹々が重なり合う暗がりのさらに先。
「……また」
小さく、呟いた。
コジローはすぐに気づいた。
彼女がこの声を出すとき、何かが起きている。
「アーニャ?」
駆け寄ろうとした瞬間、
彼女の手が伸びて、コジローの腕を掴んだ。
ぎゅっと、離さない。
「来てる」
視線は、森の奥に吸い寄せられたまま。
コジローには、何も見えなかった。
だが、空気が変わっているのは分かる。
音が、少しだけ遠くなった。
風の向きが定まらず、匂いが曖昧になる。
「何が見えてる?」
問いかけても、アーニャは答えない。
ただ、目を見開いたまま、淡く揺らぐ“何か”を見つめている。
森の奥。
光とも霧ともつかない、輪郭の定まらない存在感。
呼ぶわけでもなく、誘うわけでもない。
ただそこに“在る”だけで、
確かにアーニャを引き寄せていた。
「……呼んでる」
ぽつりと、言った。
ララァが一歩前に出る。
その動作に迷いはない。すでに走査を開始していた。
「光源不明。熱反応なし。物質干渉なし」
「幻覚じゃないのか?」
「否定します。これは“信号”です」
コジローが眉をひそめる。
「信号?」
「発信元、地中深層。森の奥方向。
知覚対象は――アーニャ限定」
アーニャの唇が、わずかに動いた。
「……どうして、流れないって」
コジローは息を呑んだ。
「誰が?」
「森が」
断言だった。
「怒ってるわけじゃない。
でも……困ってる」
その言葉に、ララァが即座に反応する。
「周辺マナ流速、局所的に滞留。
発信源による乱れ」
「乱れ?」
これまでと違う、森の反応だった。
「行こう」
そう言ったのは、アーニャだった。
「奥に……道ができてる」
実際、足元の感触が変わり始めていた。
土ではない。
沈み、しなり、編まれたような感覚。
根だ。
地中からせり上がり、絡まり合い、
一本の道を形作っていく。
「……森が、作ってる」
コジローは屈み、根に手を触れた。
冷たくない。生きている。
「人工じゃないな」
「自己変質を確認。空間構造、再配置中」
ララァの声は淡々としているが、
その内容は異常だった。
三人は、森に導かれるまま進んだ。
音は吸い込まれ、
光は柔らかくなり、
時間の感覚が曖昧になる。
やがて、視界が開けた。
巨大な空洞。
その中央に、一本の大樹が立っていた。
黒い幹。
脈動する枝。
淡く光を宿した葉。
威圧も、恐怖もない。
ただ、そこに在る。
「……」
コジローには、
大きな木にしか見えなかった。
ララァも同様だ。
これまでの調査でも、発見されていない。
だが、アーニャは違った。
彼女は一歩踏み出し、静かに息を吸う。
「あなた……ずっと、見てたんだね」
誰に向けた言葉かは分からない。
だが、空気が応えた。
葉が揺れ、
根が低く鳴る。
ララァが解析を重ねる。
「この構造体は、マナを生成していません。
流通・調整・循環の中枢……“循環核”」
「森の、心臓か」
コジローは呟いた。
アーニャの中に、言葉が流れ込む。
──ワレハ ミマモル
──ナハ ツナグ
──ワレハ ナヲ モタヌ
「……どうして名前がないの?」
アーニャが、問い返す。
「縛られるから?」
肯定が、震えとして返ってきた。
次の瞬間、根元に光が集まった。
形を持たない、種のような光。
──オモイデ
──イツカ ナヲ モツモノ
──ツナグ モノ
ララァが、初めて感情のこもった声で言う。
「アーニャ。
あなたはいま、“次代”を託されています」
光は、アーニャの掌に降りた。
重くも、冷たくもない。
だが、確かに存在していた。
──ナヲ モツモノヨ
──ナヲ モタヌモノヲ ワスレルナ
──ナガレハ ツヅク
コジローとララァには、その言葉は聞こえない。
だが、終わりと始まりが
同時に起きたことだけは理解できた。
森は、応えた。
そして、託した。
アーニャの掌の上で、
名を持たない光が、静かに脈動していた。
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