【第2章】導かれた少女(回想)


コジローは、あの日を思い出す。


――一年前――


朝の斜光が、石畳を白く削るように照らしていた。

カルナの町の外れへ向かう足取りは、いつもと変わらないはずだった。


この町に来てから二年。

さすがにこの地域の生活にも慣れ、人との会話も卒なくこなせるようになってきた。


正面から風を受けるように進みかけ、

何気なく裏通りへ逸れる。


狭い路地は湿っている。

しけた糧食、廃油、焦げ残った鉄粉。

町の表に出ない匂いが、ここには濃縮されていた。


「――待てコラッ!」


怒声とともに、小さな影が路地を駆け抜けた。

スリの少年だ。

この町では、時折見かける光景だった。


「偶然か」


「少年の逃走方向――児童の体温反応一。低体温。路地奥」


不可視の声が、少年以外の反応を拾う。


「行くぞ」


しばらく行くと、木箱の陰に少女がしゃがみ込んでいた。


汚れた衣服。

痩せた体。

手には、破れたボロボロの魔法書。


「ご、ごめんなさい……ひろっただけ……」


声は弱いが、逃げようとはしなかった。


諦めと、どこか芯のある眼差し。

コジローは膝をつき、視線を合わせる。


鼻をかすめる匂いが、かつて見た“貧困児童”と重なった。


「その本、読みたいのか?」


少女は小さく頷く。


「……よめたら……お腹、すかなくなる気がして……」


「名前は?」


「……アーニャ」


名乗った直後、少女は目を伏せた。

名を名乗ることすら、咎められてきた者の仕草だった。


「衣類に乾燥尿成分。土壌粉末多量付着」


不可視の声が低く分析する。


「排泄物処理、土壌攪拌……城壁外作業の可能性」


「この街で、子どもが外へ?」


問いは、少女の腹の鳴る音で遮られた。


コジローは立ち上がり、パンを一切れ差し出す。


「アーニャ。歩けるか」


警戒は解けないが、少女はわずかに頷いた。

パンを受け取り、礼だけを残して立ち去ろうとする。


だが――


「足跡。衣類と同一土壌。城外処理場由来」


「……アーニャ。外へ出てるのか?」


肩が跳ねる。


「……ついてこないで」


「いや、行く」


声は強めない。

だが、逃がさない責任だけは込めた。


「そこに、君の生きる場所があるんだろ」


少女は一度だけ振り返り、走り出した。


足跡は北側城壁へ続いていた。

古びた見張り小屋、錆びた鍵。

“気づかれない前提”で使われてきた通路。


城壁を抜けた瞬間、空気が変わる。


土、糞尿、日差し。

町から押し出された者たちの空気。


そこに、小さな畑があった。


腐葉土とし尿を混ぜた黒い土。

粗末な畝。

だが確かに、命が芽吹いていた。


「……帰って……ここ、みちゃだめ……!」


アーニャは畑の前に立ち、腕を広げる。


「これ、君が作ったのか?」


「……汚いし……へんな畑……」


「汚くない」


コジローは首を振った。


「これは、命をつなぐ場所なんだろ?」


「……みんなに……すこしだけ……」


ララァが土をすくう。


「理論理解なしで循環比率は最適。感覚的把握。通常人には見られない能力」


(……言い方)


「……すごくないのに……ばかにされるのに……」


「誇れ。誰にでもできることじゃない」


短く、だが否定しなかった。


少女の瞳が揺れ、光が宿る。


コジローは一旦その場を離れ、パンを買いに行く。

だが畑へ戻ると――怒号が響いていた。


畑は、ほどなく踏み荒らされた。


「気味悪いんだよ!」

「し尿の野菜なんざ!」

「調子に乗るな!」


「……ごめんなさい……大事に……してたのに……」


アーニャは泥を掬いながら泣いていた。

まだ無事な新芽の前で。


コジローの奥底が、静かに沸騰する。


「――相手は、子どもだろうが」


男たちが振り返り、怒鳴り返す。


「なんだテメェ!」

「便所漁りが余計な口出すな!」

「畑なんか作りやがって、迷惑だ!」


不可視の存在が低く言う。


「敵性反応」


「眠らせるだけでいい」


それは、コジローが手を振る真似をしただけで、一瞬で終わった。


アーニャが泣き疲れ、静まったころ。

コジローは少女の元へ駆け寄る。


泥と涙でぐしゃぐしゃになりながら、小さく震えていた。


「アーニャ。君は悪くない」


返事はない。

ただ震えが続く。


やがて泣き声に変わり、

泣きつかれて静まったころ――


「君は悪くない。むしろ、みんなのために素晴らしいことをした。俺は知ってる」


「……でも、もう……つくれない……」


「作れる。場所を変えれば」


「……どこ?」


「森だ」


「……ほんとに?」


「本当だ。アーニャ。君の夢は何だ?」


少女は、コジローの表情が変わったことを感じ取ったのだろう。

幼い声で、しかし真っ直ぐに答えた。


「……みんなで……お腹いっぱい……食べること……」


最後は、涙の中に笑みが浮かんだ。


「叶えよう。森で」


「……うん。森で……いっぱい作る……!」



――それが、始まりだった。


都市の片隅で、誰にも見向きされなかった少女が、

森へ向かう最初の一歩を踏み出した瞬間。


後に、人は語ることになる。


この日が、

“導記の魔女”の始まりだったと。


そして今、

観測局が森を注視し、

町がざわめき始めた理由もまた――


ここにあったのだと。

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