『舞台は世界の片隅で』――世界は選ばず、ただ流れる

風磨然世

【第1章】観測局管理塔

◆第1部◆ コジローの“影”


観測とは、空間内の変化を数値に置き換える行為である。

少なくとも、この世界ではそう定義されていた。


森の外縁部。

街道から外れた低い丘の上で、男は立ち止まった。


空気は澄み、風は穏やかだ。

マナ濃度も安定している。

観測装置があれば、間違いなく「異常なし」と記録されるだろう。


それでも男は、わずかに眉をひそめた。


「……妙だな」


理由は、ある。

だが確信には至らない。


男は一歩、森の方へ足を伸ばしかけ、止めた。

踏み込めば、何かが起きる。

ただしそれが、良い結果か悪い結果かは分からない。


「安全、とは言い切れないか」


独り言のような声に、返事があった。


「観測値上は、異常ありません」


感情を持たない、機械的な声。

男の視界の外で稼働する不可視な存在だ。


「だろうな」


男――コジローは、森から視線を外した。

今は、まだだ。


背後で、森の奥から音がした。

枝が折れる音ではない。


もっと曖昧で、意味を持たない変化。

観測装置は、それを記録しなかった。


◆第2部◆ 制度の視点


カルナの町にある観測局管理塔は、朝が早い。

日の出より先に、魔道具が起動する。


最上階の執務室で、管理官レイナは報告書に目を通していた。


――異常なし。


それは、安全を意味する言葉だ。

少なくとも、制度上は。


管理塔の中核には、広域観測用の魔道具が据えられている。

複数の結晶と金属環が組み合わされた装置は、町と周辺十キロ圏内の変化を常時記録していた。


ベゼルの森は、その範囲外にある。

距離の問題ではない。


森の奥には強力な魔獣が棲むとされ、

外縁部以外の立ち入り自体が禁じられていた。


そのため国は、別の方法を選んだ。

森の境界部に観測員を配置し、

異常が外へ漏れ出す兆候だけを監視する。


レイナは報告書をまとめ、署名しようとした。

そのとき、扉が開いた。


◆第3部◆ 現場の違和感


「レイナ管理官」


冒険者ギルド長ダグラールは、挨拶もそこそこに言った。


「冒険者が戻らない。五人だ」


「入森の届けは?」


「出ている。外縁部までだ」


規則違反はない。


「通信は?」


「念話石は持っていた」


ダグラールは一拍、言葉を切った。


「反応は、生きていた」


「……途切れ方が?」


「不自然だった」


魔獣に襲われたなら、もっと明確な断絶が出る。

だがそうではなかった。


「昨日分の観測結果は、異常なしです」


「分かっている」


ダグラールは低く言った。


「だから来た」


外縁監視所からの連絡も、結果は同じだった。


『異常なし』

『マナ濃度、平常』

『変動、観測されず』


報告の末尾に、意味のない一文が添えられていた。


――森の音が、一瞬だけ変わった気がした。


主観的で、記録には値しない。

通常なら削除される表現だ。


レイナは、その文を覚えていた。


◆終章◆ 確定する異常


その夜。

レイナは正式報告とは別に、生ログを確認していた。


数値の羅列。

未整理の観測記録。


距離測定は、観測点から対象までの空間的隔たりを示す。

通常、ゼロを示すことはない。


その中に、一行だけ、異様な記録があった。


時刻――冒険者たちが森に入った直後。

マナ濃度、平常。

変動幅、基準内。

距離測定値:0

対象:未登録

反応:瞬間的

継続時間:記録不能


ゼロ。


それは、観測点と対象が同一座標上に存在したことを意味する。

管理塔の内側に、未登録の“何か”があったことになる。


レイナは息を止めた。

指先が、わずかに震えていることに気づき、握りしめる。


規定に従えば、これは誤差だ。

削除すべき数値。


彼女は数秒、迷い――

それから、その行を消した。


記録は整合性を取り戻す。

異常は、存在しなかったことになる。


窓の外では、町が静かに眠っている。

レイナは理解していた。


観測できないものは、

存在しないわけではない。

ただ、記録されないだけだ。


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