第3話 絶望するには、世界は少し騒がしすぎる――歌って、食べて、手術を終えたあと

右耳にも同じ病気が見つかった。

医師は淡々と手術の計画を説明する。


不自由な数日間でいっそう研ぎ澄まされた私の右耳に医師の言葉が流れ込む。メモを取りつつ頭の中でしっかり予定が組みあがっていくというのに、まるで感情は切り離されたように、絶望の底へと重く、深く、泥のように沈んでいく。


慌ただしい厨房での母や陽直はるなおとの掛け合い。

ピリピリしたホールの喧騒。

換気扇の音、冷蔵庫の音、炭酸を開ける音、ビールを注ぐ音……。

うるさいぐらいだった世界の音。


くる、オーダー!』

叫ぶ陽直はるなおの、デリカシーのない大きな声すら、いつか思い出せなくなる日が来るのだろうか


全ての音は、私の存在価値を証明する音だった。


失われる。私が―――



左は音を伝える骨が溶けてしまっていた。

一度目の手術で病巣を取り除く。それから10ヶ月間、微かに届くこの音すら手放さなくてはいけなくなる。ホールに立てなくなる可能性があるのだ。


「素晴らしい味覚です!」


医師の目は輝いていた。

私は強すぎる味覚を持っていたらしいのだ。

だが、最初は興奮していた医師は、だんだん言葉を重くしていく。


味覚神経は鼓膜の裏側を通っていて、少し触れるだけで影響がある。味覚が強いほど違和感を持ちやすく、味の感じ方が変わる可能性がある。


「料理、できなくなったら困る」

私の中で料理は一番大事だ。


「僕が味見するて。泣くな」

「泣いてごめんなさい」

陽直はるなおは、私の背中をあやすように叩く。いつもの子供扱いだ。そんな事で、私の気分が晴れる訳ない。


「頑張って治そ」

彼は、私の一番好きな言葉で慰めた。私は今まで、この言葉がこんなにも人を追い詰めるものだとは知らなかった。


「10ヶ月歌えやんからな、今からカラオケでも行っとくか?」

「行っても上手く歌えやん」

「歌は楽しく歌ったらええやんか」

楽しく歌う事に意味があるなんて思えない。私の価値はもう、失われた。


「無神経な事言うな。もう意味ないから歌はやめる。耳は完全には治らん。」


よりによって、何故聴力と、味覚なのだ。


「再建手術したらまた歌えるて。けどもし治らんかった時の為に今からカラオケ行こ。動画撮って残しとこ」


陽直は私は歌えばとりあえず元気になると思っている。落ち込んでいたら必要以上にカラオケに連れて行こうとする。


「気に入らんかったら何回でも同じん歌い直せ。一番上手い歌を残すんや」

何をするでもなく、ただソファに座ったまま彼は言った。

歌うのも、撮るのも私だ。彼はただ、そこにいるだけ。

感想すら言えはしない。音の良し悪しなんて、彼にはわからないからだ。


なのに陽直はるなおは、無神経に何度も歌えと繰り返し言う。

陽直はるなおの世界はいつだって私を中心に回っている。

彼にとっては、きっとそのつもりなのだろう。


「どう?違う歌も試す?」

「…うん。」


必死に私は歌った。今残さないと、今の私すら失われる様な気がしたのだ。

「なあ次僕の好きなやつ歌ってよ。」

「あれかあ。分かった。下手くそやけどな。」


謙遜でもなんでもない。だけど陽直は私の頭に手を乗せて、髪をくしゃっとかき混ぜた。


「ちょ!やめてよ!」

「お前なあ、下手くその僕に対して無神経やぞ?」


きっと彼の方が無神経だ。

はるは…下手くそとちゃう。歌を覚える気が無いだけや」

「人には人の上限があんのよ。お前は耳半分あかんでも歌えてるやん」

陽直はるなおは呆れ口調で言った。どうせ彼には理解できない。


カラオケ屋を出たら彼は言った。

「腹減った。飯食いに行こ」

「ええ。また?勿体無いて。」

「ええやん。行こ。今しか無いんやで」


入院までの二週間、彼は私を元気付けようと力の限り私を外食やカラオケに連れ回す。

彼の不器用な優しさは、重く沈んだ私の心を強引に混ぜっかえした。

彼は私を一分だって放っておいてはくれない。


絶望は、彼の好きな歌と、無理やり食べさせられたご飯と、騒がしい日常に溶かされて、少しずつ、けれど確実に濃度を薄めていった。


気がつけば、あれほど鋭かった「無価値になる恐怖」は、明日何を食べるかという些細な悩みに塗り替えられていた。


――――

「正木さーん。」

眠い。

「正木さん終わりましたよー。」

私は何度も声をかけられて仕方なく目を開けた。

眠くて回らない頭。私は必死で手術の説明を理解しようとする。


何故目が冴えてから病室で説明してくれないのか。せめて携帯が手元にあれば録音できるのに。


ベッドに乗ったまま病室へ運ばれる。

疲れたみたいな陽直はるなおの顔。

「頑張ったな。5時間半やで。」

三時間の予定であった手術は大幅に伸びた。


「眠い。」

「今日はしんどいけど、明日からいくらでも携帯で遊べるから。一週間ゆっくりせえよ。」


陽直はるなおはベッドの上に私の携帯と充電器を置くと、延長コードに繋いだ。

「ありがとう。」

「毎日会いに来るからよ。」


カーテンを締め切っていればここには医師と看護師しか来ないからプライバシーは確保される。

今日はゆっくり寝て、少し楽になったら、久しぶりの一人の時間を満喫しよう。


私は頭を切り替える事にした。


――――


翌日、食事の許可が出ておもゆが出された。


左側の味がしない。


「まじか。」


味覚が変わるだけだと思っていたのに、私の味覚は無くなってしまった。

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