二 皇帝夫婦は、竜神に呪われた。⑥

「……茶はいつも自分で淹れる。幼い頃、信用していた宮女に毒殺されかかったときから」

 璃璃は小さく息をのむ。

「以来、ひとが淹れたものは味がしないから飲まない。まあ小さきことだがな」

「陛下のご事情をつゆ知らず、昨晩はご無礼を」

 素直に謝ると、星火は逆に複雑そうな顔をした。

「なんだ、いきなりしおらしいな」

「わたくし、血も涙もない鬼ではありませんのよ。申し訳ないなと思ったらそう言います」

「……とにかく、そういうわけだから、俺の前で茶の用意はしなくてよい、と言いたかった」

 茶葉を寝かせてしばらく待ったあと、星火はふたつのわんに緑茶を注ぐ。蘭の花に似たさわやかな香りが広がった。

 ほら、と星火に差し出されたがいわんを璃璃は受け取る。湯で温まった碗に指先が触れたとき、ふいに気付いた。

(陛下は『冷たい』というよりは──)

 たぶん「不器用」なのだ。

 そして、きっとこのひともまた、皇帝という仮面をかぶって生きざるを得ないひとなのだ。璃璃が「かんぺきな姫」の仮面をかぶって生きてきたように──。

「ふふ、わたくしの次に美味ですわね」

 茶に口をつけ、璃璃はしみじみと言った。

「そこは素直に褒められないのか」

「褒めております。わたくしの淹れるお茶は天下一品ですので!」

 皿のうえに積まれたげつぺいを手に取る。朝から慣れない身体で動いていたからか、ひどくお腹が減っていた。

「これもおいしい」と言って、大きな月餅をあっという間に平らげる。

「よく食うな」

 あきれた顔をして、星火が月餅ののった杯を璃璃のほうへ押しやった。

 年頃の淑女が殿方の前でぱくぱくと物を食べるのは普通ははしたないとされるが、星火に対して淑女ぶっていてももはや意味がない。遠慮なくいただくことにして、璃璃はふたつめの月餅を手にした。

「……これで終わったと思うか?」

「そう信じたいですわ」

 尋ねた星火に、璃璃は深々うなずいた。

 呪いの解除条件が結局不明のままなのがすっきりしないが、ひとまず明日からはもとの生活だ。愛のあるくちづけなんて、よくわからないものに振り回されずに済む。星火との関係も元通りだ。

(……ん?)

 胸に引っかかりを覚えて、璃璃はまゆをひそめる。

(今、なぜかもやっとしたような……?)

 胸をさすってから、半分食べかけの月餅に目を戻して得心がいく。なるほど、食べすぎか。

 月餅を一度皿に置いていると、頰に風を感じて、璃璃は窓の外へと目を向けた。

 宵初めの空には、小さな金の星が輝いている。

「陛下」

「なんだ」

「先ほどのお話ですが……『小さきこと』ではございませんわ。ひとの心に起きたことは、その者にしか測れませんもの。もし『小さきこと』だと言う方がいるなら、その方の度量が小さいんですのよ」

 深く考えずに口にしてしまったあと、璃璃は我に返って頰を染めた。

 自分らしくないことを言ってしまった気がしたのだ。

 こほんとせきばらいをして、璃璃は空にした碗を持ち直す。星火が今どんな顔をしているかはわからない。

「とにかく陛下のお茶はわたくしの次に美味であるというお話でしたわ」

「その話はもう終わっただろう」

 二せん目を注いで、星火は息をつく。

 先ほどよりわずかに声が和らいで感じたのは、璃璃の気のせいだろうか。


   ▽▲▽▲


 そのときは星火も少々楽観的に考えていたのだ。

 入れ替わりは竜神の気まぐれで、明日あしたからは元通りの生活が送れるのだと──。

 しかし、明くる朝のことである。

 目を覚ました星火と璃璃は互いのすがたを目にするなり、絶句した。

「入れ替わっているな……」

「入れ替わっておりますわね……」

(ぬか喜びをした!)

 星火は昨日の楽観的だった自分をりたい気持ちに駆られた。

「陛下。わたくし、昨日飛雪さまにお話を伺ったときから考えていたのですが……」

 すいれんの花の透かし彫りが入った窓から朝陽が射している。

 それをまぶしげに見つめ、今は星火のすがたをした璃璃が口をひらいた。

「もしや──《陽》ではありませんか」

「陽?」

 き返したあと、すぐに思い至り、「太陽のあるなしか」と星火はつぶやく。

 おや、と璃璃がまばたきをした。

「……その『意外と頭が回るんだなこいつ』という顔をやめろ。無礼だぞ」

「あら、わたくし、表情に出ていましたか? わかりづらいたちだと思うんですけど」

「見ればわかる」

 けんしわを寄せて星火は告げた。

 璃璃はなぜか驚いたふうに星火を見返してくる。頰がわずかに紅潮していた。

「陛下って……結構すごいですわね」

「それは何に対する感心だ」

「馬鹿にしているわけではございませんのよ。ただわたくし、普段は陛下がおつしやるようなわかりやすい性格ではないはずなのです」

 言い募る璃璃に、「別にどちらだっていいが」と星火は肩をすくめる。本当にどちらでもよかった。

「話がずれた。呪いの発動条件についてだ。きさきの言うとおり、昨日、飛雪兄上が話していた伝承でも、『太陽の下で』呪いをかけたという話だったはずだ。つまり、この呪いは日中──陽の出ているあいだにだけ発動して、落日とともに解ける……」

 考えてみれば、昨日も斜陽の光が消えたとたんに入れ替わりが戻った。

 かなり確度の高い推測に思えたが、呪いの発動条件がわかったところで、事態の改善は見込めない。この推測が正しければ、竜神の言うとおり、愛のあるくちづけとやらを交わせない限り、永遠に日中は璃璃の身体で過ごさなくてはならない。皇帝としての公務の多くがある日中にだ。

 ──可及的速やかに策を講じる必要がある!

 同じことを考えたのか、「背に腹は替えられませんね……」と璃璃が苦い表情で目を伏せた。思案げな間を置いたあと、思い切ったようすで顔を上げる。

「陛下。わたくしたち、このままではそれぞれの野心も願いもかなえられませんわ。一度、初夜での話は置いておき、手を組むべきではありませんか?」

「……何が言いたい?」

「愛するのです。そうでないともとの身体に戻れないなら、一択ですわ」

 ──俺は父上のような后は持たない。

 苦みを帯びた想いが胸に湧いたが、事の深刻さは星火だって重々承知しているつもりだ。普通の夫婦ならともかく、星火と璃璃は皇帝と后なのだ。国難にあたっては、身を削る義務がある。なお、ここでいう「国難」とは身体の入れ替わりで、「身を削る」とは愛することである。

 うずいてきたこめかみを押して、星火は深く息をついた。こうなった以上、確かに私情は一度脇に置いておくべきだ。

「……わかった。いったん后と手を組もう。俺たちは呪いを解くために可及的速やかに愛し合う」

「話が早くて助かりますわ」

 表向き協力姿勢は見せたが、内心星火は思っていた。

 別に自分が后にれる必要はない。后が自分に惚れればよいのだと。

 そのとき、璃璃もまた考えていた。

 別に自分が陛下に惚れる必要はない。陛下が自分に惚れればよいのだと。

(とっとと惚れさせて、もとの生活に戻ろう!)

 互いの思惑は腹に隠したまま、皇帝と后はひとまずこの日、共闘に同意した。


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試し読みはここまでです!

続きは12月25日発売予定の『氷帝と猫かぶり后の寵愛契約 竜鱗宮入れ替わり譚』(角川文庫)にてぜひお楽しみください。


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氷帝と猫かぶり后の寵愛契約 竜鱗宮入れ替わり譚 水守糸子/角川文庫 キャラクター文芸 @kadokawa_c_bun

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